舞い散る桜の花びらが、鮮烈な出会いを思い出させる。
あのひとのような、あたたかい季節が好きだった。
何度だって待ち望んだ春。
来なければいいのになんて、はじめて願ってしまった。
*
ぱちん、ぱちん。一定のリズムは、やわらかな心地よさを誘う。時折混ざるのは他愛のない会話と、稼働し続けるストーブの音くらいだった。窓の外の夕焼け空に気づかないほどに、千冬は器用に動く指先を見つめることに夢中だった。オレもねこになりたい。そんな邪な気持ちを胸に秘めながら。
「ペケJ、ほらおわったぞ」
ふうと爪に一息かけられると、ペケJと呼ばれる黒猫はみゃあと鳴いて飛び起きた。ごろごろと鳴らす喉は、満足の証だろう。つぶらな瞳を自慢げに光らせる。
「すげぇ! 場地さん、プロみてえ」
「まぁな」
尊敬の眼差しを向けられ、場地は照れくさそうに笑った。お礼を言いたげな黒猫が足元にすり寄る。ペケJはシャンプー、ブラッシング、爪切りと、手厚いもてなしを一身に浴びていた。うっとりと身を委ねる猫の姿には、場地の努力の跡が見える。手入れされた毛並みを撫でながら、千冬は水を向けた。
「専門で資格取ったんスよね」
「技術つけたかったからな」
「こないだの結果って、もう出ました?」
緊張した面持ちで尋ねる。場地は苦笑しながら、軽く目を伏せた。
「まだ。三日は経つんだけどな」
その声は心なしか沈んでいる。数ヶ月の間、場地の就職活動は難航していた。疲れを感じては、こうして本気で応援してくれる親友と、愛くるしい黒猫に癒されに来ていたのだ。
「オレが店長だったら即採用するのに!」
「ありえねー」
場地は思わず噴き出した。エプロンを付けて爽やかに接客する千冬。想像すると、案外似合っているのかもしれない。
「ま、諦めきれねぇし。次がんばるけどな」
「その意気ッス!」
千冬が拳を突き出すと、場地は目元を緩めながらコツンとそれに応じた。突き合わせた拳は、喧嘩で大暴れする前の儀式みたいだ。場地は猫にするのと同じように、黄色い頭をくしゃりとひと撫でする。やがて帰り支度をして、部屋から出ていった。
人ひとりの気配が消えただけで、部屋の温度は幾分下がったような気になる。千冬はストーブの温度をひとつ上げて、小さなため息を零した。
「場地さん、うまくいくといいな」
カーテンに手を伸ばす。窓の外はすっかり日が暮れていた。薄暗い空を眺めながら、千冬はこの時季の日の短さを実感する。厚い雲に覆われた空には、星ひとつ見当たらない。
みゃあと鳴く声に振り返ると、ベッドにいたはずのペケJがごはんの催促をしていた。
「そろそろメシの時間か。待ってろ」
千冬は居間へ向かい、戸棚からお気に入りのキャットフードを取り出す。皿に移していると、外から大きな足音が近づいてきた。留守中の母親だろうか。それにしては騒々しい。インターホンが鳴り、ドアを開けると、先ほどまで居た場地の姿があった。
「場地さん、忘れもんスか?」
「受かった! さっき帰ったら、電話きて…… !」
息せき切ってきて顔を上げる。聞き終える前に、千冬は目の前の男を強く抱きしめていた。
「おめでとうございます!」
感極まった声が、場地の耳元をくすぐる。場地は大きく見開いた瞳をふ、と緩めながら抱き返した。子どもをあやすように、何度も肩をたたく。
「なんでオマエが泣くんだよ」
「だって、夢叶ったんスね…… !」
場地の肩口を濡らしながら、声を震わせる。中学生の頃、自分にそっと打ち明けてくれた夢。ペットショップの店員になりたいと、照れくさそうに語る顔を忘れるわけがない。動物が好きで優しい彼にぴったりだと思った。憧れのひとの夢が叶う瞬間に立ちあえるなんて。自分のこと以上の喜びが、千冬の胸を満たしていく。
「もう泣きやんだ?」
「あ、すんません!」
場地がにやにやしながら顔を覗き込んでくる。千冬は我に返り、バネのように大きく跳ねて退いた。どさくさに紛れて抱き着いたことに気づき、顔が熱くなる。
「やっとシューカツから解放される!」
場地はうんと伸びをした。その清々しい顔を見るのは高校受験以来だな、なんて千冬は懐かしい気分に浸る。
「すっげーカラダ動かしてぇ気分! 千冬ぅ、付き合ってくんね?」
顔を近づけてニッと笑いかける。夜に身体を動かす…… ? 脳内でぐるぐると邪念が渦巻く。千冬は迷わずに頷いた。
*
「ストライク!」
ガコンと痛快な音を立て、ピンが倒される。得意げに駆け寄る場地を、千冬はにこやかに迎えてハイタッチした。邪な期待が一掃されるほど、爽やかな汗を流していた。
「久々に動くときもちいな!」
「そうっスね!」
ゲームを終えて、ふたりは椅子に腰を掛けた。バイクを飛ばして訪れたボウリング場は、平日の夜だからか客足はまばらだ。僅かにいる人たちが歩くたび、シューズの音が響く。
「最近大学どうなん?」
「順調ッス! 場地さんはこれからどうするんスか?」
「残りの授業受けたり、バイトしたりだな」
春から社会人になると忙しくなるだろう。今のうちにたくさん遊んでおきたいと、千冬は淡い期待を抱いていた。
「あと部屋探さねぇと」
「部屋?」
「一人暮らしすンだよ」
軽やかな言葉が落とされ、胸の辺りに波紋が広がる。近くでストライクの決まる音が、千冬の頭を強く打ち付けた。
離れ離れになる日がくるとは思っていなかった。いや、考えないようにしていた、と言うほうが正しい。少し考えればわかるはずなのに。心のどこかで否定し続けていた。
東卍が解散し、進路が分かれた後も濃密な友人関係は続いていた。同じ団地で部屋を行き来できる環境が、それを可能にしていたのだろう。離れたらきっと、今まで通りにはいかなくなる。そう思うと、不安が心に影を落とす。
「腹へってねぇの?」
寄り道先のファミレスで、場地は何枚目かわからないステーキを平らげていた。千冬の目の前には、手つかずのハンバーグが湯気を立てている。やっと肉を口へ運ぶが、ハムスターのように頬張るいつもの勢いがまるでない。どこか上の空な様子に、場地は怪訝そうな表情を浮かべた。
「引っ越しちまったら、すぐには会えなくなりますよね」
「そうだな。一年目は忙しくなるから、こっちに帰る気はほとんどねえよ」
晴れやかな顔で告げられる。意志の強い瞳を向けられ、千冬の胸がちくりと痛んだ。素直に応援できない自分に嫌気が差す。
「だから春までたっぷり遊ぼうぜ! 今日みたいにさ」
場地は笑顔で千冬の頭を掻き混ぜた。残酷なほどに、優しい言葉は響く。
「約束ッスよ」
千冬は誤魔化すように、慌てて笑みをつくった。
やっとハタチを迎えて追いついたのに。千冬の想い人はいつも一歩先へ行ってしまう。近くにいても、遠くに感じてしまうひと。まるで夜空にあるはずなのに、こちらからは見えない星みたいだ。
その日を境に、千冬は今まで以上に場地との時間を過ごした。この先会えなくなる時間を、必死に埋めるかのように。場地は苦笑しつつも、邪険にすることは一度もなかった。
春なんて来なければいいのに。ずっと冬のまま、寄り添って暖かければそれでいいのに。後ろめたい気持ちを隠し続け、千冬は笑顔のままでいた。
*
膨らんだ桜の蕾は、無情にも春の訪れを告げる。心地よい陽気に包まれながら、場地の引っ越しの日は着実と近づいていた。
「いよいよ来週ッスね」
「おう、一人暮らしって大変だな。家具揃えんのもめんどくせえ」
愚痴を零しつつも、どこか楽しげだった。その横顔は大人びていて、千冬は切なげに目を細めた。
「場地さん、引っ越す前にひとつお願いがあるんスけど」
たくさんの思い出を増やしてきた。だけどまだひとつ、やり残したことがある。おとなになった千冬が、場地ともう一度してみたかったこと。
*
夜も更け、ふたり分の足音が静寂に響く。コンビニ袋を片手に、コンクリートの床に直接腰を下ろした。
「大の男が二人、ここで駄弁っていーのか?」
「何か言われたら謝りましょ」
満開の夜桜が見物だというのに、彼らは団地の踊り場でひっそりと身を寄せ合っている。袋から飲み物や菓子を次々と取り出した。
「改めて、内定おめでとうございます」
「おう、ありがと」
乾杯、と言ってふたつの缶を合わせた。プルタブを開け、アルコールが乾いた喉を潤す。昔と同じことをしているはずなのに、ジュースではなくてビールなのがちぐはぐで、何だか可笑しかった。
「朝まで駄弁りたいっつーからビビッたワ。ガキの頃よくできたよな」
「ガキだからできたんスよ」
千冬は小さく笑い、ポテトチップスの袋を開けた。
「楽しかったッスね。東卍で大暴れして、オレは場地さんの背中追っかけて…… 」
あの頃の青春は、色褪せずに輝き続けるのだろう。過去に思いを馳せていると、突然肩にガシリと心地よい重みを感じた。場地が肩を組んできたのだ。密着した体温に、缶の中身と千冬の心臓が、同時に大きく波を立てた。
「なに言ってんだよ。これからも楽しいことなんてたくさんあンだろ。オマエと酒も飲めるようになったしな!」
場地は笑いながら、二本目の酒を取り出した。今度は柑橘系のチューハイだ。ぐびぐびと喉を鳴らす。
「でも…… 会えなくなるのは、さみしいッス」
酔いが回ってきたせいなのか、臆病な本音がするりと飛び出した。缶を置く音がやけに響く。ふーんと相槌を打ち、場地が視線を寄越した。
「オレはさみしくねえけどな。千冬とこれっきりなんて、ちっとも思ってねえから」
その言葉に目を見開く。低めの優しい声が、あたたかな春風とともに耳を撫でた。
「これからも会いたいって思うんだけど。千冬はちげぇの?」
場地は一気に酒を煽り、くちびるを尖らせた。拗ねたような横顔。ほんのり桜色に染まった頬は、きっと酒のせいだけではない。大人びていた顔が急に幼く見えてしまい、愛しさで胸がいっぱいになる。
「オレもッス! 場地さん、オレ、会いにいきますから! なんどでも…… !」
千冬は顔を上げて宣言する。ろれつのまわらない口調。けれどその声は、力強さに満ちている。目元には、飴玉のような大粒の雫が光っていた。
「うれしーじゃん。まってる」
場地はふにゃりと口元を緩め、目の前で零れ落ちそうな涙をすくいあげる。優しい指のぬくもりに、千冬の顔には自然と笑みが広がった。憧れのひとと同じ気持ちなのが、こんなにも心強いだなんて。遠くに見える一番星は、ずっと近くで輝いてくれていたのだ。
「今夜はたくさん語りましょう、場地さん!」
「おう、朝まで寝かせる気ねぇからな」
口説き文句のような台詞にどくんと胸が高鳴る。顔の火照りを冷まそうと、踊り場から顔を出した。澄み切った夜空には、いくつもの真白い星々が瞬いていた。
*
引っ越し当日。かつての東卍の仲間たちは、最寄り駅まで場地の見送りに集まっていた。
「部屋決まってよかったな」
「イイ部屋探してくれてありがとな、パー」
「場地が社会人なんて想像つかねぇ」
「マイキーだけには言われたくねぇ」
「イラついて客の車燃やすなよ」
「しねえよ!」
彼らは軽口を叩き合う。数年越しでも変わらない空気に、自然と笑みが浮かんだ。
「場地さん!」
呼ばれて場地は仲間の輪から抜け出した。千冬は両手を重ね、小物を握らせる。
「何だよ、これ」
「餞別です」
手を開くと革のキーケースが光っていた。黒猫の模様が愛らしい。
「家のカギに付けてください」
そう言って、千冬はふわりと微笑んだ。どうか自分のことを思い出してほしい。新しい日常に少しでも溶け込みたい。そんな、下心を隠した贈り物。
「ありがとな。千冬を思い出して元気でそう」
見透かされたかのような言葉に心臓が飛び跳ねる。場地は無邪気に笑いかけた。
「じゃあな! 落ち着いたらまた連絡するワ」
「いってらっしゃい!」
「元気でな」
電車のアナウンスが鳴り響く。場地は春風に押されるような足取りで、改札を通っていった。
「行っちまったな」
「千冬は場地ばなれできんの?」
「ずっといっしょだったもんな、オメェら」
衆目が千冬に集まる。茶化すような口ぶりだが、どこか心配する様子でもあった。それもそのはずだ。千冬の場地への熱烈な想いは、昔から周知の事実なのだから。
「大丈夫ッス。会いに行くんで」
千冬は晴れやかな表情で、きっぱりと言い切った。
春が巡るのと同じように、想いはかわらず在り続けるのだろう。凛として見つめるその先は、雑踏に溶けていく想い人の背中だった。

