夏が絡みて

 桜色に染まる木々は、まぶしい緑へと装いを変えていた。じりじりと響く蝉の声が、初夏の訪れを知らせる。額の汗は拭ってもすぐに噴き出した。
 場地の新生活が始まる一方で、千冬も多忙な日々を送っていた。パイロットを志す千冬は、本格的な実習が始まった。資格取得に向けた勉強や通常の講義、さらにバイトも加わる。会いに行きたいという思いがあっても、現実的には厳しかった。
「そろそろ会えねぇかな」
 ベッドに寝転がりながら、携帯電話とにらめっこする。やっと生活が落ち着いてきた。そろそろあのひとの顔が見たい。
 土曜日会えませんか?と送信ボタンを押そうとした瞬間、軽快なメロディが鳴り響く。受信したメッセージに、千冬は目を見開いた。
――― 今週の土曜空いてる?
 以心伝心ではないか。千冬は飛び起きて、慌ててメッセージを打ち直した。もちろん空いてます。即送信。絵文字がチカチカうるせえ、という苦情が届いたのは、数分後のことだった。

 土曜日。陽射しが強くなり始める頃、千冬はそわそわと駅前に佇んでいた。最寄り駅まで場地が迎えに来るという。やっとあの日の約束が叶うのだと思うと、心が風船みたいに弾んでしまう。駅ビルのショーウィンドウに視線を向ける。ガラスに映るにやけた顔を軽く叩き、前髪をさっと整えていた。
 その時。
「千冬ぅ、待たせたな」
 低く優しい声。名前を呼ばれるときの、気怠げに伸ばす音の響きが好きだった。振り返ると、夢にまで見た想い人の姿がそこにある。こつこつと歩くたび、括られた黒髪がふわりと揺れた。
「場地さんっ!」
 もうガキじゃない。あのひとがドキッとするような、スマートな振る舞いをしよう。しかし、ずっと思い描いていた理想は、恋い焦がれた笑顔を前にあっけなく崩れてしまう。瞳を輝かせて、犬のように駆け出してしまった。
「元気でしたか? 会いたかったッス!」
「オマエも元気そうじゃん」
 場地は目元を緩ませて、煌めく金髪をくしゃりと撫でまわした。銀色のアクセサリーが掛かる鎖骨は、窪みに汗が伝ってまぶしい。視界に入るとくらりとし、千冬のまわりだけ気温が上昇するような心地がした。
「マジで今日出掛けなくていーの? オレんち、おもしれーもん何もねえけど」
「場地さんちでゆっくりしたいッス。今日暑いし!」
 千冬は手でぱたぱたと顔をあおぐ仕草をしてみせた。
「おみやげにドーナツありますよ」
「やった! アイスとか飲みもんも買ってこーぜ。うちすぐそこだから」
 白い歯を覗かせて笑い、ご機嫌な様子で歩き出す。千冬は軽い足取りでその背中の後に続いた。

 駅の周りには、生活に必要な店がそろっていた。買い物を終えて少し歩くと、静かな住宅地が広がっている。
「いい感じッスね」
「家賃安いし、職場にも近ぇんだ。パーに感謝だワ」
 かんかんと階段を鳴らし、アパートの二階へと向かった。
「待ってろ、今開けるから」
 場地が取り出したのは、黒猫のキーケース。千冬はそれを目ざとく見つけた。
「使ってくれてたんスね!」
「ああ、可愛くて気に入ってる」
 そう言って、場地は照れくさそうに笑った。千冬の目論見通り、場地の日常にしれっと溶け込んでいるらしい。黒猫の模様がやけに頼もしく輝いて見えた。
「ほら、つっ立ってねぇで入れよ」
 感動に浸る間もなく促される。玄関からは、涼しい風が歓迎してくれた。陽射しに焼かれた肌をひんやり撫でられ、生き返るみたいに心地がよい。場地が冷房を入れて、出掛けてくれたおかげだ。さりげない心遣いに感謝しながら、千冬は部屋へ踏み入れた。
(ここが、場地さんの住む部屋…… )
 想い人がひとり生活する空間だと思うと喉が鳴り、自然と気持ちが昂ってしまう。咳払いをひとつ。冷静になって辺りを見渡した。
 物が減ってシンプルに見えるけれど、至る所に場地らしさが散らばっている。動物図鑑に動物フィギュア、東卍の頃の写真に、想いが染み込んだ特攻服。通い慣れた部屋の名残を見つけ、心が和んだ。
「じろじろ見んな。手ぇ洗ってそこ座っとけ」
 千冬の額を軽く弾くと、場地は台所へと向かった。手伝おうとするとすぐに制され、千冬はおとなしく「待て」をする。ちょこんと座り、愛しい人の後ろ姿を眺めていた。場地はアイスコーヒーを手にしてやってきて、隣に腰を下ろした。ドーナツの箱を開けて、お気に入りを各々つまんだ。
「昔っからそればっか食うよな」
「うまいじゃないスか! 場地さんだって、それお気に入りでしょ?」
「よく覚えてんな。これ食ってりゃ間違いねえよ」
 変わらない味覚に、一瞬で昔に戻ったような気分になる。笑いながら食べると、クリームが余計甘く感じられた。
「仕事のほうどうッスか?」
「まあ何とかやってる。覚えること多いけどな。千冬は?」
「オレはやっと操縦実習入りました。マジ緊張します」
「へえ、すごいじゃん!」
 突然大きな声が降ってきた。見上げると、場地がテーブルから身を乗り出している。その衝動でグラスが少し揺れた。
「まだまだッスけど。試験もあるし」
「なに日和ってんだ。副隊長だろーが。根性見せろ」
「隊長に言われると心強いッスね」
 真剣な顔つきで言われて、思わず笑みが零れた。
「千冬も夢に近づいてんだなあ」
 場地はしみじみとつぶやいて口元を綻ばせた。まるで自分のことのように、嬉しそうにしてみせる。千冬は誇らしく、面映ゆい気持ちだった。
(場地さんも、あのときこんな感じだったのかな)
 そうだと嬉しい。場地が夢を叶えて、千冬が泣いたあの日。思い出すと照れくさくなり、体温が上がってしまう。冷房が効いているはずなのに、頬から熱がすぐには引いてくれなかった。

「この後どうする?」
 小腹を満たして話題が尽きた頃。こんなこともあろうかと!という風情で、千冬は鞄からあるものを取り出した。
「タケミっちんとこで借りてきたんスけど、見ませんか?」
 左右にちらつかせるそれは、ディスクの入ったケースだ。『最新作』の赤いラベルが貼ってある。
「いいな。アイツ、レンタルショップだっけ?」
「入荷したって聞いたから借りてきました」
 明るい顔の場地を見て、期待通りの反応に千冬は鼻を鳴らした。ふたりが好きなアクション映画の続編。互いに忙しくて、観る機会を逃していたのだ。
「デッキあります?」
「そこ。引っ越し前に買った」
 テレビの前に座り直し、ディスクを入れた。映像が流れ、長い予告が終わりいよいよ始まる。その時、水を差すように場地の携帯が鳴り響いた。
「ちょっと待て。…… もしもし」
 電話口でめずらしく敬語で話す場地。盗み聞きをするつもりはないけれど、その様子は新鮮だった。
「仕事ッスか?」
「ああ、今から来れないかって」
 場地は電話を切って、小さく舌打ちをした。新人という立場上、断りづらいのかもしれない。重い腰を上げて身支度を始めた。
「悪い、夜まで帰れなそう。映画見たらテキトーに帰ってていいから。カギはポストに入れといて」
 淀みなく話すと、場地は部屋から出ていった。一瞬でもの寂しさが、部屋中を包み込む。映画を見る気分にもなれず、千冬は電源を切ってリモコンを放った。
 折角の再会なのに、ただで帰るわけにはいかない。そう決意するとひとつの考えが浮かんだ。あのひとのために、いま自分ができること。
「よし! 準備するか」
 気合いを入れて立ち上がる。帰ってきたら喜んでくれるだろうか。想像すると口角がつり上がる。
 あのひとを想うだけで、こんなにも嬉しくなるなんて。千冬にあたたかい気持ちを運んでくれるのはいつだって、場地圭介、ただ一人なのだろう。

 小気味よい音が聞こえる。外が暗くなり始める頃、部屋中には食欲をそそる匂いが立ち込めていた。スーパーマーケットから戻ってきて一時間。計画通り、千冬の作業は進んでいた。
「ただいま!」
 バンッと勢いよくドアが開かれる。予定より早い家主の帰宅だ。
「おかえり、場地さん! お疲れさまッス」
「カレーだ! うまそーじゃん!」
 千冬の背後から覗き込んで、瞳を輝かせた。
「晩メシ作ってるっつーからよ、そっこー帰ってきた」
 場地は額の汗を拭い、屈託なく笑った。早足で来たのだろう。息が上がっている。想像以上の喜びぶりが、くすぐったかった。
「もう少し待っててもらえますか?」
「おう、シャワー浴びてくっから」
 あちぃとぼやきながら、場地は風呂場へと消えていった。あれだけ期待してくれているのだ。おいしくなれ、とまじないの隠し味をかける。らしくない自分に苦笑し、鍋をゆるく掻き混ぜた。

小さなテーブルは賑やかに彩られた。ふたり分のカレーライスとサラダ、味噌汁が並ぶ。風呂上がりの場地が隣りに座ると、石鹸の香りがふわりと鼻を掠めた。
「いただきます!」
 手を合わせて食事と向き合った。カレーには茄子に南瓜、不格好な大きさの野菜がごろごろと入っていた。スプーンで一口すくうと、トマトの酸味が口の中を爽やかに駆けぬける。うまい、の一言がすぐに降ってきて、千冬はホッと胸を撫で下ろした。
「千冬って料理できたんだな」
「全然ッスよ。久々だし」
 料理なんて、母の日に気まぐれでした時以来だ。それでも場地の喜ぶ顔を想像すると、自然と捗っていたのだ。ひとはこうやって、料理が上達するのかもしれない。
「ガキの頃、たまに千冬んちから晩メシの匂いがしてきてよ。今日カレーか~いいな~ってなることあったワ」
「マジすか。初耳ッス」
「だから今、千冬んちのカレー食ってんのふしぎな感じ」
 場地は味わいながら、笑みを深くする。
「甘いけど何入ってんの?」
「はちみつッス」
「ふーん、これが千冬の味かあ」
 なるほどなるほど。ガリ勉の時みたいに頷く。ちふゆのあじ。語弊を招く発言に、思わずむせ返る。風呂上がりなのも相まって、食事の時でさえ色気を拾ってしまう。口元から赤い舌が覗くたび、千冬は唾を呑み込んた。
「食い終わったんで、帰ります」
 ごちそうさま、と言って先に立ち上がった。これ以上長居すると、うっかり想いが溢れてしまいそうだ。台所へ向かおうとする。その時、控えめに服の袖を引っ張られた。
「泊まってけば?」
 琥珀色の瞳がじっと此方を見つめてくる。千冬は心臓がぐらりと揺れ、食器といっしょに落としそうになった。
「何も用意してないッスよ」
「服は貸してやる。メシの礼に、パンツぐらい買ってやるよ」
 人懐こい笑みが向けられる。座ったままの体勢だと自然と上目遣いになり、心臓をギュッとわし掴みにされるような心地がした。
(ずりぃだろ、その顔)
 なんて魅力的なお誘いだろう。千冬は理性との戦いを早々と放棄し、首を縦に振るのだった。

 場地がコンビニへ出かける前、千冬は風呂場へと促された。脱衣して戸を開けると、湯気でほんのり温かい。蛇口からぽたりと滴る雫が、使われていたばかりという生々しさを残していた。
「たえられんのかな、オレ…… 」
 悩ましげなため息がさらに湿度を上げる。のぼせそうになるたびに、水で頭を冷やし続けた。

 風呂から上がると、ハーフパンツとTシャツ、新品の下着が用意されていた。
「着替え、ありがとうございます」
「ちょうどよさそうだな」
 袖があまってカッコ悪いという事態にはならず、薄着の季節にそっと感謝した。
「ついでにこれ買ってきた。やらね?」
 場地は得意げに見せびらかした。
「いいっスね!」
 それが何かわかると、千冬も声を弾ませた。どきどきとした高揚感は、色を変えて輝き出す。もちろんやるに決まっている。またひとつ、夏の思い出が増えていく。

 外へ出ると、生温い夜風が頬を撫でつけた。まだ蒸し暑いけれど、昼間に比べればだいぶ涼やかだ。虫たちは夜も活動的で、羽を震わせ奏で続ける。ふたりはアパート前の片隅でしゃがみ込んだ。
「花火久々だなあ」
「この時期、もうコンビニに並んでるんスね」
 おもちゃ箱をひっくり返したように、様々な花火が飛び出す。懐かしさに、童心に返って目を細めた。
「東卍でも神社でやりましたよね」
「マイキーが連続でぶっ放して、ドラケンに怒られてたな」
「タケミっちがネズミ花火から逃げ回ってたのも、傑作だったッスね」
 思い出話に花が咲き、くすくすと笑い合う。花火をひとつ選び、ライターで火をつけた。ジュッと音を立て、蛇口をひねるような勢いで炎が溢れ出す。
「すげえ! 見て場地さん!」
「ほら、消える前に火ぃかせ」
 場地が差し出す花火に、慌てて千冬がそっと寄せた。煙の匂いを感じながら、灯りがうつる瞬間をじっと見守る。たった数秒だけれど、心までもがひとつに重なるようだった。
「ついた。オレのもキレーだろ!」
「ほんと、きれいッス」
 夜闇を閉じ込めたような長髪が、鮮やかな光に照らされている。真っ直ぐに突っ走る憧れのひとには、潔く放つ煌めきがよく似合う。千冬はきれいな横顔にそっと見惚れていた。
「最後はこれで勝負しましょ!」
「お約束だな」
 場地は小さく笑って線香花火を受け取った。同時に火をつける。消えないようにこそこそと話すのが内緒話みたいで、何だか可笑しかった。
「全然落ちねぇな」
「オレまだいけますよ」
「なあ、千冬ぅ」
「はい?」
「すきだ」
 ほんの一瞬だった。ぼとっ、と火の玉が地面に吸い込まれる。心臓はどっどっと走り続けるように暴れ出す。シャワーを浴びたばかりなのに、全身から汗が吹き出しそうだった。そんな千冬をよそに、オレの勝ちだな、なんて場地はのん気に笑っている。
「こうやって千冬と過ごす時間がさ。やっぱオレ好きだ」
 場地はそう言って、裏表のない笑顔を弾けさせた。ぱちぱちと火花が散るように、千冬の瞼に焼き付いて離れない。
「オレだって好きッスよ、ずっと」
 蒼い瞳に頼りない灯りが映って揺れた。場地の線香花火はまだ、細く燃え続けている。
「そうかよ」
 照れくさそうに笑う場地に、千冬も笑顔で返した。けれどその笑みは、睫毛が切なげに伏せられていた。
 きっと知らない。千冬がいっしょに過ごすだけでは、すでに物たりなくなっていることも。幸せだけれど、胸の痛みを覚える瞬間があることも。場地はきっと、知らない。
「オレのも落ちた」
 僅かな小さい灯りは、短い命を燃やして散ってしまった。穏やかな時間が続きますように。線香花火みたいに、儚く消えてしまいませんように。今の千冬には、ただ祈ることしかできなかった。

 携帯のアラームと蝉の声が、新しい一日の始まりを告げる。じりりと部屋中に響き、おもたい瞼をゆっくりと持ち上げた。
「おはよ」
「うわあ!?」
 目と鼻の先にきれいな顔がある。口から心臓が飛び出そうになり、ベッドから派手に転がり落ちた。
「え!? なんで…… !?」
 いつもと違う天井。ふかふかのベッド。そして何より、目の前に横たわる想い人の姿。拗らせすぎてついに幻覚まで見え始めたのだろうか。
「寝ぼけてんのか?いっしょに寝ただろ」
「寝…… !? ああ!」
 昨夜の記憶が蘇り、上体を起こした。外から戻ってきてから、ふたりは同じベッドで眠った。雑魚寝を申し出る千冬に対して、「いっしょに寝ればよくね?」と場地が提案した。葛藤の末、千冬は欲に負けて従ったのだ。
(おかげでぜんぜん寝れなかったけど)
 思い出すだけで顔が火照ってしまう。寝返りを打つときの艶っぽい声、シーツに散らばる長い髪、ほのかな石鹸の香り、すらりと伸びた長い脚…… 。挙げたらキリがない。場地をかたちづくる要素ひとつひとつが、千冬の五感を甘く刺激した。けれど、千冬もいつの間にか、疲れて眠ってしまったらしい。おかげで目を覚ますのは、場地のほうが少し早かった。
「やっぱ布団、用意したほうがいいかもな」
「え?」
「また泊まりに来ンだろ?」
 場地はゆっくり起き上がり、カーテンを開けた。太陽の日が射しこんで、きらきらとまぶしい。
「いいんスか?! 」
「当たり前じゃん」
 千冬の驚きように、場地がくつくつと笑った。次がある。当然のような口ぶりが嬉しくなる。寝床が別ならば、頼りない自分の理性でも打ち勝つことができるだろう。たぶん。
「午後からバイト入ってるんで、そろそろ失礼します。ありがとうございました!」
「こっちこそ。カレーありがとな」
 素早く着替え、身支度をする。ジーンズを履いてポケットに手を突っ込むと、中にじゃらりと金属の物が入ったままだった。
「借りてた鍵! 返すの忘れるとこでした」
 千冬は慌てて鍵を差し出した。すると場地は、何かを思いついたように手を引っ込める。
「千冬が持ってろよ。どーせまた来るんだし」
 思いがけない言葉に目を白黒させる。鍵を持ってろって。そんなのまるで――― 。独りよがりな妄想を繰り広げる前に、千冬は静かに呼吸を整えた。
「ほかの人には、渡してないんスよね?」
「そうだな。あと一個しか予備ねえし」
「なんでオレにくれるんスか?」
 トクベツな意味を見出して良いのだろうか。それとも、ただの気まぐれか。千冬は言葉の真意を探るような視線を向ける。すると場地は、困ったような笑みを浮かべながら小首を傾げた。
「よくわかんねーけど…… 、千冬が部屋で待ってンの、なんかイイなって思った」
 ゆっくりとした口調は、ひとつひとつの言葉を確かめて紡ぐようだった。まるできれいな貝殻をそっと拾い集めるように。鍵を渡してきたのは、きっとただの気まぐれではない。戸惑いを浮かべた表情が、そう示していた。
「すっげえ嬉しいッス。大切にしますね」
「キーケースは外して置いてけよ」
 千冬は鍵を外し、ぎゅっと胸に抱いた。使わねえと意味ねえからな、と言って場地が苦笑する。その顔はまんざらでもなさそうだった。
「それじゃ、場地さん。行ってきます!」
「行ってらっしゃい」
 また帰ってくるかのような挨拶を交わし、部屋を後にした。たった二日間。愛しさの風船が膨らんで、弾けてしまいそうだ。いっそう離れがたい。だけど、千冬は身をもって実感した。場地の新しい日常にするりと溶け込んだのは、キーケースだけではないことを。
「やっぱすきだなあ」
 階段を下りる足音が軽やかに響く。相変わらず今日も陽射しがまぶしい。けれど、実に爽やかな夏の朝だった。

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