秋を傍らに

「もう来んなよ」
 拒絶を滲ませた声が、静寂を打ち破った。窓を打つ雨音と、足音だけが響く病室。そこへ足を運んだのは何度目になるだろう。視界に捉えた場地の右腕には、細長い管が繋がれたままだ。彼の心臓が動き続けているというだけで、千冬に安堵をもたらした。
「勝手にしろって言ったじゃないスか」
「だからって何度も来るかよ。テメェの憧れるような男はもういねぇだろ」
 突き放すような口ぶりだった。だけど千冬はわかっている。それが彼の優しさだと。見捨ててほしいと言っているかのような響きをしていた。
「場地さんは、今もオレの憧れです」
「何でだよ。結局オレは何もできなかった。それにオレはオマエを殴って…… 」
 堰を切ったように、後悔が止まらない。千冬は枕元に近づいて膝を折った。場地の手を取り、そっと両手で包みこむ。
「オレは仲間を大事にするアンタだから憧れたんスよ。ぜんぶ東卍を守るためだったでしょう」
 本当は啖呵を切りたかった。けれど、暴走したらブレーキをかける自信がなくて、千冬は穏やかな口調で続ける。
「これからはもっと頼ってほしいッス。副隊長だからじゃない。ダチとして、場地さんのとなりに立ちたい」
 懇願するかのように、包んだ両手に額をくっつけた。想いの分だけ、握った力が強くなる。
「何泣いてンだよ」
「…… ッ、アンタが泣かないからだろ…… 」
 頬に手を当てると、通り雨に降られたかのように濡れていた。抑えていた感情は雫となって、とめどなく溢れてしまう。
「ありがとな、千冬」
 場地はそっと囁き、静かに表情を和らげた。気を緩めた途端、彼の頬にも雨粒が零れる。一筋伝う雫は息を呑むほどに美しい。視界に捉えた瞬間、千冬は雷に打たれたかのような衝動に駆られた。
 抱きしめたい。めちゃくちゃに甘やかしてやりたい。仲間を守るというのなら、オレがアンタを守りたい。
 初めて見た、憧れのひとの涙だった。弱さに触れ、想いを自覚した途端、血液がものすごい速さで全身を駆け巡る。熱い。からだじゅうが叫んでいる。このひとは、オレの愛しいひとだって。
 それは秋雨とともに訪れた恋。今もなお、降り続いている。

 晴れの下、通い慣れた大学はテーマパークのような賑わいを見せていた。学園祭という非日常的な空間が、人々の心を浮き立たせる。華やかな装飾は、散らばる銀杏や紅葉によく映えていた。
(場地さんは…… まだ来てないよな)
 熱い鉄板の前に立ち、千冬は黙々と自分の仕事をこなしていた。麺と具を豪快に混ぜるヘラ捌きは、一度きりの練習にしてはすっかり板についている。額に浮かぶ汗を拭いながら、時折人混みに目を向けて想い人の姿を探した。

「大学ってどんな感じ?」
 それは他愛のない会話のなかで、場地が突然尋ねた言葉だ。専門学校を卒業しすぐに就職した彼は、キャンパスライフというものに興味を抱いていた。千冬が話し始めると、場地は相槌を打ちながら耳を傾ける。
「よかったら来てみませんか? 来週学祭があるんスけど」
 大学の雰囲気を楽しむには絶好の機会だろうと思い、千冬は提案した。あわよくばデート気分が味わえるかも、なんてほんの下心を混ぜて。ちょうど休暇だそうで、場地は色よい返事を笑顔で返した。

 そして迎えた学園祭当日。まだ朝早く、模擬店への客足はまばらだ。焼きそばのストックが、あっという間に積まれていく。食欲を誘うソースの香りが漂い、油の跳ねる音や、焦げた匂いの煙が、祭りの雰囲気をいっそう掻き立てた。
「松野、さっきからそわそわしてね?」
「ダチが来るんだ。まだ来てないみてえだけど」
「まさか…… あのバジさん!?」
 その名が出た瞬間、周囲がざわめき立つ。
「そうだけど…… テメェら黙ってろよな」
 千冬は片眉をぎゅっとつり上げながら、同期生たちに釘を刺した。
「よー、千冬ぅ」
 絶妙の間で、心待ちにしていた声が耳に届き、顔を上げた。噂のそのひとが、此方へ向かってくる。すらりと伸びた手足や整った顔立ちが、遠くからでも一際目を引いていた。千冬が大きく手を振ると、場地も振り返しながら笑みを浮かべた。
「場地さん! ここまで迷いませんでしたか?」
「すぐ着いたけど、オメェんとこの店探すまで手間取ったワ。焼きそばいいじゃん」
「あとでいっしょに食いましょ!」
 会って早々に盛り上がる。祭り特有の空気がそうさせた。
「想像とだいぶ違ったな」
「だよね。年上の彼女かと思ったもん」
 同期生がひそひそと話している。すると『バジさん』が近づいてきて、彼らはびくりと身を固くした。
「こんにちは。松野がいつも世話になってます」
 そう言って、場地は柔らかく微笑んだ。はじめて見る表情だ。学生の頃では見られなかった、余所行きの顔。大人びた所作に思わず見惚れてしまう。
「こちらこそ! 噂のバジさんに会えて光栄です」
「おい、よけーなこと言うな」
「あ? 千冬ぅ、なに喋ったンだよ」
 場地は怪訝そうな表情を千冬に向けた。見慣れたガラの悪い顔つきだ。けれど、周囲は先程との差にぎょっとする。
「憧れの先輩なんですよね?」
「バジさんがオレのすべてだーって。松野のヤツ、酔うと語り出すんスよ」
「言うなって!」
 千冬が話し出す前に、同期生はすかさず口を挟んだ。羞恥で頬が熱をもつ。
「行きましょう、場地さん。オレもうシフト終わったんで!」
 千冬は言い募ると、場地の手を引いて歩き出した。空いたほうの手で、焼きそばのパックをひょいと掴む。場地は苦笑して振り返り、模擬店に残る学生たちに軽く会釈をした。
「バジさん…… かっこよかったね」
「松野は犬っぽかったよな。あんな反応初めて見たワ」
 学生たちは焼きそばの売り上げを伸ばしながら、雑踏に紛れる彼らを話題にしてくすりと笑った。

 知り合いの姿が見えなくなると、千冬は手をぱっと解いた。模擬店の連なる道から外れて、石段に腰を下ろす。遠くから威勢の良い呼び込みが、絶えず聞こえてきた。
「すんません! 酔って場地さんのこと、べらべら喋っちまったみたいで…… !」
 つい此間の失態を懺悔する。飲み会の席で、好きなひとはいる?という、ありふれた恋バナだった気がする。「オレには憧れのひとが…… 」と語り出したのが、記憶に新しい。
「オレまで恥かいたじゃねーか」
 盛大なため息が降ってきた。千冬は恐る恐る、視線を向ける。皿を割ったときの愛猫みたいに、身を縮めながら。
「たこ焼きも奢ってくれたらチャラにしてやるよ」
 場地はおどけてにやりと笑った。どうやら機嫌を損ねたわけではないらしい。千冬は胸を撫で下ろし、「何個でも奢ります!」と高らかに声を弾ませた。
「大学の祭りって規模でけーのな」
「そうっスね。後でステージも観に行きましょうか」
 焼きそばを交代で食べ終え、他の模擬店を巡り始めた。まずはたこ焼きを目指そう。さっきの件をすぐにチャラにしてもらわなければ。千冬は軽い足取りで、目的の店へ向かう。場地は口元のソースを指で拭い、浮かれた背中を追いかけた。

 模擬店や野外ステージを巡り、あっという間に時は過ぎていた。昼間の青空がうそのように、太陽は姿を隠している。残暑を感じさせる生ぬるい風が、彼らの頬を撫でていた。
「楽しかったっスね! あのバンドが来てるなんて、知りませんでした」
「んー」
「たくさん連れ回しちゃったけど、大丈夫っスか?」
 口数の少なさに違和感を覚え、場地の顔を覗き込んだ。自分ばかり楽しんでいないだろうか。心当たりのある千冬は、しゅんと眉を下げた。
「ヘーキ。オレも楽しかったし。でもちょっと疲れたワ」
 場地は微苦笑を浮かべて答えた。雨が降る前に帰ろうか。自然と呼吸を合わせて、ふたりは正門へと歩を進めた。
「最後にここ、寄りたい」
 場地はある看板を見つけて指を差した。喧騒から離れ、ひっそりとしている講義棟。『大学案内はこちら』という、達筆な字が目に入った。
「受験生向けブースですよ。場地さん、受験するんスか?」
「そうだな。生まれ変わったら大学生もいいかも」
 軽口を叩いて笑い合った。
「言ったろ? 千冬の通う大学が気になるって」
 場地は吸い込まれるようにして、自動ドアを通り抜ける。千冬は慌ててその後を追いかけた。

 大きな講義室。祭りの騒々しさとは対照的に、静かで落ち着いた空気が漂う。大学職員が二人で対応していて、制服姿の高校生が入れ替わりで姿を現した。場違いな気がして一瞬躊躇ったが、職員は気にせず笑顔で対応してくれた。
「千冬も高校生の時来てた?」
「いや、オレはオープンキャンパスの方に行ってたッスね」
 入口のすぐ傍で、大きなスクリーンが目に入る。空席のパイプ椅子がいくつか置かれていた。大学紹介の映像がくり返し流れている。場地はその椅子に座り、画面を食い入るように眺めていた。
(そんなに面白いモンか…… ?)
 気になって千冬も目を向ける。ちょうどそこに映っていたのは、見慣れた小さな機体だった。滑走路を駆け出し、地上からふわりと飛び上がる。操縦桿を握る学生は肩を強張らせ、画面越しでも緊張感が伝わってきた。
「これ千冬だよな?」
「マジだ! この前やった実習です」
「撮られてて気づかなかったん?」
「知ってたけど、まさかここで使われるとは思わなかったッス」
 飛行機は澄んだ青空へと溶けていく。操縦士の横顔は、真剣そのものだ。
(オレってこんな顔できたんだな…… )
「千冬かっけえじゃん」
 突然の誉め言葉にどきりとする。
「パイロットになれよ。すげえ似合ってる」
 場地はそう言って、口元にゆるりと弧を描いた。低めの声が胸に響く。その言葉には、絶大な効果がありそうだ。松野千冬の原動力は、昔も今も、場地圭介なのだから。
「あざっす! 頑張るんで、見ていてくださいね」
 満面の笑みで応じると、場地は両の目を細め、穏やかに頷いた。視線が交わると、琥珀色の瞳がとろりと揺れる。
「場地さん、そんな熱い目で見られると溶けちゃいます」
「どんな目だよ…… 」
「潤んでますけど」
 場地は頬を上気させながら、ぱたぱたとシャツの襟元を扇いだ。零れる吐息が色っぽい。凝視して千冬はごくりと喉を鳴らした。落ち着け。ここは大学で、オレたちはまだそんな関係でもない。画面から流れる無機質な音声が、公共の場であることを思い出させ、なけなしの理性を繋ぎ止めていた。
「さっきからあちぃんだよな。ぼーっとするし」
「え…… ? ちょっと失礼します」
 千冬はひと呼吸してから、場地の顔を覗き込んだ。ぎしりとパイプ椅子が軋んで音を立てる。額にそっと触れると、湯に触れるような熱さが、てのひらに伝わった。
「熱あるじゃないスか!」
「ん…… そうかも…… 」
 気怠げに頷く場地の首元には、玉の汗が滲んでいた。
「えっと、救急車!」
「やめろって。ただの風邪だから」
 慌てる千冬の手首を掴んで、場地は制した。職員に事情を説明し、タクシーを手配する。外へ出ると、ぽつぽつと雨が降り出していた。

 タクシーが到着すると、場地を支えて座らせた。場地は気が緩んで、窓に寄り掛かって瞼を閉じる。
 どうして気づかなかったのだろう。いや、口数の少なさや疲労には気づいていたはずだ。また間違えたのだろうか。変化に気づきながらも救えなかった、あの時みたいに。
 車内には咳と呼吸、雨を弾くワイパーの音しか聞こえない。千冬は掛ける言葉が見つからず、苦しげな寝顔を見つめるだけだった。

 診察の結果、季節の変わり目に引きやすい風邪だった。薬を処方してもらい、コンビニで必要なものを買う。雨脚はより強くなっていた。
「もうすぐ家ッスからね」
 場地に肩を貸しながら、車から降りた。預けられた身体は、鉛のように重い。ぐっと踏ん張りながら、千冬は一歩ずつ、アパートの階段を上がった。
「持っててよかった…… 」
 まさか、こんなかたちで使う日がくるなんて。ドアの前、手の中の鍵を見つめて息をつく。キーケースは、後からこっそり場地とお揃いにしたものだ。合鍵を使う機会は、今まで一度もなかった。場地がいる日に遊びに行っていたし、留守中の部屋に上がるなんて、恐れ多くてできなかった。ただお守りのように持ち歩くだけで、千冬は幸せな気分に浸れた。その甲斐あってか、すぐに鞄から取り出せたことに苦笑する。
「ただいまです」
 自分の家のように挨拶し、鍵穴に差し込んだ。ガチャリと音が鳴り、おお、と感嘆の声が漏れる。
「場地さん、着きましたよ」
「悪ぃな。やっと寝れるワ」
 ベッドに跳び込もうとする場地を制して、床に座らせた。汗でシャツがぐちゃぐちゃに濡れていたからだ。
「場地さん、寝る前に着替えられますか?」
「めんどくせえ…… 千冬ぅ、脱がせて」
 ヒュッと喉奥から、音のない悲鳴を上げそうになった。憧れのひとが両手を広げて、甘ったるい声でねだってくる。これは夢だろうか。子どものような仕草も彼がすると、まるで誘っているかのような色香が漂っていた。
「うう…… 、いいんスね?! 」
「さっさとしろ」
 葛藤の末、結局は下心が勝ってしまう。千冬は温かいタオルを用意して、シャツのボタンに手を掛けた。心臓がうるさいくらいに騒ぎ立て、指先が震えてしまう。すべてを外し終えると、今度はぴたりと張り付いたインナーが飛び出てきて目に毒だった。なるべく直視せず、脱がしにかかる。平常心を装って背後に回り、肩から背中、腰までタオルを滑らせる。目線が下へ向かうと、傷跡が視界に入ってびくりとした。
「傷、今も痛みますか?」
「たまにな。こんな天気だと特に」
 ばつの悪そうな笑い声が、耳元に届く。まじまじと見るのは初めてだった。傷跡をそっと指でなぞる。大切なひとが一命を取り留めた奇跡を思い出し、熱いものが込み上げそうになる。
「今日はすいません、無理させちまって。場地さんがいつもと違うって気づいてたのに。また、守れなかった」
 くちびるをぎゅうと噛む。頼ってほしいと願ったのに、自分は何も変われていない。窓の外の雨音が、いっそう強くなる。病室で誓ったあの日も、こんな雨の降る秋の日だった。
「ばあか」
 場地は振り返り、情けない顔の親友と向き合った。真正面からの半裸姿にドキッとするのも束の間、千冬は額を指で弾かれ、痛ッと小さな悲鳴を上げた。
「オレは今日、楽しいから黙ってた。途中で帰んのヤダったから。ガキみてぇだろ」
 場地はカラッとした笑みを浮かべる。
「ダチとして隣りにいてくれンじゃねーの?」
 その言葉に、千冬は目を丸くした。
「覚えてたんスか」
「忘れらんねぇよ。びぃびぃ泣いてたヤツのことなんか」
 思い出してウ…… ッと羞恥で身を捩る。
「ひとつ、訂正させてください。ダチのままじゃイヤです」
 千冬は顔を上げ、きっぱりと言い切った。憧れているだけではなく、肩を並べて隣りに立ちたい。頼りになる男でありたい。その想いはずっと変わらない。けれど想いは弾けそうなほどに膨れ上がり、かたちを変えてしまった。
「オレはダチよりも、アンタのトクベツになりたい」
 真っ直ぐ見つめて、想いを乗せる。告白する勇気はまだないけれど、この気持ちは嘘偽りのない本物だ。高鳴る心臓の音と強い雨音が、耳朶に響いている。
「まだわかんねえ?」
 夕陽のような瞳が、やわらかな光を向けた。
「こんな甘えちまうの千冬にだけだし、オマエは十分トクベツ…… だと、思う」
 素直なその声は、語尾が尻すぼみになっていた。何も纏っていない半身が、呼吸するたび上下する。吸い寄せられるかのように、千冬のてのひらがそっと場地の胸板に触れた。素肌がやけに熱い。どくどくと刻む鼓動は、生きている証だ。
「心臓、速いッスね」
「うるせ、風邪だからだろ」
 千冬の言葉に反応したのか、鼓動はさらに加速する。思わず顔を凝視すると、場地はぷいとそっぽを向いてしまった。
(なんスか、その反応は…… !)
 殴られたかのような衝撃だった。こんな可愛らしい反応されてしまうと、嫌でも期待してしまうではないか。半裸の想い人がベッドに腰掛けている状況。糸のように細い理性が、いよいよ危うい。千冬が両眉をぎゅうと寄せて思い悩んでいると、場地は手元からタオルを奪い、雑に自分の身体を拭く。手近にあるTシャツに着替えてベッドに潜り込んだ。
「薬飲んだら寝るワ」
「水、持ってきますね」
「なぁ…… 、いっこ甘えてい?」
 掠れた声に心臓が跳ねる。弱々しい指が、千冬の服を掴んだ。
「今日はそばにいてほしい。風邪、移しちまうかもしんねぇけど」
 布団を頭から被っていて顔は見えない。けれど、くぐもった声が、控えめな指先が、確かに千冬を求めている。精一杯の甘えたな仕草に、ぎゅうっと胸が締め付けられそうになる。
「もちろんです。ずっとそばにいますから」
 千冬は優しく目を細めて、少し汗ばんだ手を握った。場地は何も言ってくれない。けれど、握り返すてのひらが、答えのすべてだった。 

 どれくらい眠っただろうか。カーテンを開けると、朝日が昇っていた。カレンダーを一瞥し、休日であることに安堵する。場地は上体を起こした。Tシャツとシーツはぐっしょりと濡れている。たくさん汗をかき、熱は引いたようだ。とりあえずシャワーを浴びたい。ベッドから下りようとした瞬間、枕元の光景にぎょっとした。
「千冬…… !? なんでここに」
 寝息を立てる親友の頭が揺れている。上半身をベッドに預け、床に座ったままの体勢だった。金色の髪は、雨上がりの太陽を浴びてきらきらと光っている。
 夢だと思いたかった。熱に浮かされて、余計なことを口走ってしまったから。しかし現実を目の当たりにし、カァッと頬に赤みが差す。言い訳を思考しているうちに、ひとの起きる気配を感じ、場地の肩がびくりと跳ねた。
「おはようございます。調子どうッスか?」
 千冬は目を擦ってふにゃりと微笑んだ。善意のある笑顔が、やけに輝いて見える。
「あー…… 、熱下がってだいぶよくなった。世話になったな」
「マジすか! よかったッス」
 場地の反応に、千冬は満面の笑みを浮かべた。ただの風邪なのに。一晩中付きっ切りで見ていてくれたのだと思うと、申し訳なさと嬉しさで、胸がいっぱいになる。昨夜のことを千冬が触れてこなくて良かった。場地は安堵し、風呂場へと向かう。
「オレってその…… 場地さんのトクベツ、なんスよね?」
 投げかけられた言葉に、ぴたりと足を止めた。振り返ると期待の滲んだ眼差しが、うるさいくらいに注がれる。
「昨日のは忘れろ! ブン殴るぞ!」
「無理ッス! てかもう殴ってますって!」
 アパートの一室で、朝から大声が響く。雨は一晩ですっかりやんでしまった。けれど、温かなこの想いは降り続くのだろう。
――― 友人と呼ぶには、すこし特別な相手に向けて。

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