海に惹かれて

 窓の隙間を吹き抜ける風が、夕陽に染まるカーテンを揺らしている。ペンが止まると、急かすように冷たい空気が手の甲を撫でた。
「千冬ぅ、これどうやんの?」
「それは公式を使って……」
 場地は重たい瞼をもち上げながら、数式を見つめる。最後の大問を指差すと、千冬が椅子と一緒に肩を寄せてきた。
 正月気分が抜け、教室の空気はピンと張り詰めていた。この時期には二種類の人間がいる。進路が決まっている者と、受験を控えている者。机に向かう彼らは後者だ。喧嘩に明け暮れた不良少年たちも、自分の未来に目を向けていた。
「宿題出したのによー、再提出って厳しくね?」
「ほぼ間違ってたっスからね」
 場地は口を尖らせた。部活に精を出す生徒の声や、楽器の音が絶えず窓を打つ。
 教えるときに話しやすいからと、教室での居残りを提案したのは千冬だ。家では集中できないし、ファミレスも長居できない。塾や図書室を利用する生徒が多いので、放課後の教室では二人きりだ。
「入試まで二か月切っただろ。やべぇよな」
「大丈夫っスよ、オレが教えるんで! だから絶対、一緒の高校行きましょうね」
 千冬が指を絡めてきた。窓から射す夕陽が、微笑の輪郭をオレンジ色になぞる。途端に今の関係を意識し、てのひらが汗ばむ。
 友人と呼ぶには親密な距離。人目のないところでくっつくようになったのは、この男の告白を受け入れてからだった。

 *

 都会に初雪が降った日。頬も鼻先も真っ赤にした千冬の顔を、今でもよく覚えている。
「好きです」
 二人で出掛けた帰り道。予報外れの雪に降られ、公園の屋根の下でベンチに腰を掛けていた。親友の思いがけない言葉。夜空を眺め、降ってきたのは雪だけではなかった。
「ちが……! いや、違くなくて……」
 告げた本人のほうが驚いた風情で、千冬は顔をゆがませた。口元を手で覆い、丸まった背中が震えている。
 言うつもりなんてなかったのに。焦りを滲ませた男の顔に、そう書いてある。
「好き、なんです」
 透き通る水色の瞳が、真っ直ぐ此方を見据えた。
「ダチとか兄弟分とか、そんなんじゃ収まんねぇくらい……アンタに惚れてる」
 くちびるから淡雪のように息がこぼれる。氷を薄く張ったような目の膜が、潤んで溶けてしまいそうだった。
 千冬は気持ちを偽らない道を選んだ。緊張感が背筋を駆け巡る。重い沈黙の後、場地は静かに口を開いた。
「オレも千冬のこと、大事に思ってる」
「じゃあ……」
「付き合うとか、そういうのはよくわかんねぇけど」
 藍色のマフラーに口元をうずめ、睫毛を伏せた。
 場地はまだ恋を知らない。同性相手なら尚更。千冬と同じかたちの「好き」だと、同じ熱量の愛情を返せると、自信をもって言えなかった。
 だけど、千冬といると楽しい。千冬には笑っていてほしい。それは紛れもない真実で、ともに過ごす日々のなかで募らせた想いだ。
「試しに付き合ってみるのはどうっスか? 違うって思ったら、いつでもダチに戻るんで」
 一瞬の揺らぎを見透かされたのだろうか。隙を突いて千冬が畳み掛けてきた。子犬さながらの上目遣いで見つめてくる。
 この純粋な想いに応えれば、千冬はきっと尻尾を振って喜ぶのだろう。容易に想像がつき、くちびるが弧を描く。
「いいよ」
 笑顔が見たい。そう思った瞬間、口にしていた。
「千冬がそれでいいなら、付き合お」
 手袋越しに触れると、指先がびくりと跳ねる。蒼の双眸が大きく見開いた。
「マジっスか!?」
「オメーが言ったんだろ」
「そうですけど……、付き合えると思ってなかったんで」
 千冬は両手を重ね、ぎゅっと包み込んだ。やっと手に入れた宝物を確かめるように。
 見たいと願った男の笑みは、想像よりもずっと綺麗で、温かく場地を照らした。目尻に滲む涙が光り、まるで星屑みたいだ。この顔を近くで見られるのが恋人の特権ならば、それも悪くないのかもしれない。
「よろしくお願いします」
「こっちこそ、よろしく」
「ちゃんと惚れさせるんで、覚悟してください!」
「上等だ」
 宣戦布告にふはっと笑うと、辺りに白い息が舞う。てのひらを握り返しながら、やむ気配のない雪を眺めていた。

 *

 ひと月前の出来事を思い出し、絡められた指をぎこちなく解こうとする。目が合うと、千冬がふわりと笑った。
「好きです、場地さん」
「何だよ急に」
「言いたくなったんで」
 頬に熱が灯るのを感じて、場地は逃げるようにプリントに視線を落とした。
 半ば絆されて千冬との交際を始めたものの、恋人として意識している自覚があった。甘さを秘めたまっすぐな好意。熱の籠った眼差しを向けられると、場地はどうすれば良いのかわからなくなる。ちいさく息を吐き、再び課題に集中してペンを走らせた。
「できた。これでどう?」
「カンペキです! 場地さん、やりゃあできるんスよ!」
「千冬の教え方がうめぇからだろ」
「そうっスかね?」
 率直に告げると、千冬は急に小声になって頬を掻いた。さらっと好きだと言うくせに、照れるところが妙にずれている。場地はプリントを手に取り、立ち上がった。
「提出してくる」
「校門で待ってますね」
 ガタンと椅子の音を立て、教室から出ていった。焼き焦がれるほどの熱い視線を、背中に感じながら。

 叱られるために渋々赴く場所。そんな認識があるせいか、職員室までの足取りはいつも重くなる。
 失礼します、と言って戸を開ける。再提出の印を押した数学教師は、隣席の国語教師と話し込んでいた。
「松野のこれ、どう思います?」
「もう一度呼び出してみましょうか」
 密やかな硬い声。松野、と聞こえた。千冬がどうかしたのだろうか。場地は不穏な会話に顔を顰め、彼らの間に割って入った。
「プリントできました」
 ぬっと上から差し出すと、数学教師は椅子に腰を掛けたまま手を伸ばした。
「場地、お疲れさん」
「これでいいっスか」
「おー、よくがんばったな」
 教師はプリントを確認し、安堵したかのように目尻の皺を深くした。
「ダチが教えてくれたんで」
「ああ、松野か」
「さっき聞こえたんスけど、千冬がどうかしたんスか?」
 怪訝そうに尋ねると、教師たちが顔を見合わせた。話すか迷うようなそぶりを見せる。場地ならいいか、と一人が呟いて此方に向き直った。
「場地は、松野の志望校知ってるのか?」
 その問いに場地はこくりと頷く。
 知ってるも何も、一緒の高校に行こうと言われたばかりだ。付き合う前から決めていた。場地が元々受験する予定の、下から数えたほうが早いような男子校。
「もったいないと思わないか?」
「何が?」
「松野の成績なら、もっと上を狙えるはずなんだ」
「こんなに伸びるなんてね。入学当初はとんでもない不良が入ってきたって思ったもんだけど」
 頭を抱える数学教師の横で、国語教師がカラッと笑う。
 職員机に広げられた資料は、先月受けた模試の結果だろう。松野千冬、の印字が左上に見える。場地は好奇心が勝り、彼の手元をそっと覗いた。
 第一志望は、場地と同じ志望校。第二志望は、近隣にある中堅の進学校。どちらもA判定だ。
 教えるのが上手いと思っていたけれど、まさかここまで成績が伸びていたとは。
「場地からも言っといてよ」
「ムダだと思いますよ。アイツ、オレと同じガッコ行くって張り切ってっから」
「はは、だろうな」
 教師たちは苦笑しながら肩を竦める。
 場地が千冬に慕われていることは、周知の事実だ。教員の間でも有名なのだと思うと、妙に照れくさい。
「松野に明日、私のとこに来るよう伝えといてくれ。ちゃんと考えてるってわかれば、もう何も言わないからさ」

 校舎を出ると、びゅうと冷たい風が掠めて肩をすぼめる。見上げると日は傾き、夕暮れ空は紺色に染まり始めていた。
「場地さん、お疲れ様です!」
 千冬は壁に寄り掛かっていたが、場地に気付くとすぐに駆け寄ってきた。黙っていれば絵になる男かもしれないと遠目で思ったけれど、それは一瞬で、飼い主を待つ犬の姿に変わってしまった。
「課題、あれで大丈夫でした?」
「おう、バッチリ! 千冬のおかげだな」
 金髪を撫でて礼を言うと、千冬は照れくさそうに微笑む。素直な反応が可愛らしくて、さらに頭を掻き混ぜた。
 帰路を辿りながら、場地は言伝を思い出す。
「数学のセンコーが明日来いって。千冬の志望校、アレでいいのかって心配してた」
「はあ? 良いに決まってます! 希望調査出したのにまだ文句あンのかよ」
 舌打ちをする勢いで、苦虫を噛み潰したような顔をした。千冬も職員室が苦手なタイプだった。不良であの堅苦しい空間が平気な人種なんて、三ツ谷くらいじゃないだろうか。
―――もったいないと思わないか?
 数学教師の言葉と、盗み見た模試の結果が脳裏を過ぎる。
「千冬は将来の夢とかあんの?」
「う〜ん……、ガキの頃はパイロットになりたかったな。今は違いますけど」
 人通りの少ない路地に入り、ゆるく手を繋がれた。千冬から触れてくるので、この道が近付くといつもそわそわする。
「場地さんの隣りにいることが、今のオレの夢っスね」
 千冬は迷いなく言い放ち、にっこりと笑った。
 普通の恋人ならときめく場面なのだろうか。それに反して、悪寒が走った。冷たい風が頬を刺すように吹きつける。
「場地さんは、夢とかあるんスか?」
「動物とかバイクとか、好きなことを仕事にしてぇな」
「いいっスね! オレもそうしよ。どっちも好きだし」
 明るいその声は、ただの軽口には聞こえなかった。
 今まで深く考えていなかったけれど。千冬はいつも、場地を道標にしている。
 自分の言動が、ひとの人生を変えてしまう。
 かつて車の燃え立つ炎の下、友情を誓い合った相棒がいる。臆病な少年だった一虎を、不良の世界に導いたのは場地だ。いつも一緒に馬鹿騒ぎをしているけれど、親心のような責任感が付き纏った。
 一虎に道を踏み外させるような真似をさせてはならない。不良だということを後悔させたくない。それが一虎の人生を変えてしまった自分のすべきことであり、願いだった。
 千冬の人生も、この先変わってしまうのだろうか。場地の何気ない一言で。
「場地さん?」
 千冬が顔を覗き込む。心配するような目つきだった。
「千冬自身はどうしてえの?」
「え?」
「さっきから、オレのことばっかじゃん」
 繋がれた手を引き止めた。軽く切り出すつもりだったのに、寒さのせいだろうか、言葉が強くなってしまう。
「オレが出家したいっつったら、オメーもついて来ンのかよ」
「場地さん出家するんスか?!」
「するわけねぇだろ!」
 本気で驚く千冬に思わず突っ込んだ。眉根を寄せて見つめると、千冬は真剣な顔で場地に向き合う。
「好きな人と一緒にいたいって思うのは、そんなにダメなことっスか?」
「それがオメーの言う『付き合う』ってことなら、オレにはめんどくせぇワ」
 場地は深く溜息をつき、繋いだ手を振り払った。
 歩を進めると、少し遅れて千冬の足音が聞こえる。身を切るような風が吹くなか、二人とも無言のままだった。
「少し頭冷やせよ」
「場地さん……!」
 団地まで着き、場地は一度だけ振り返った。辺りはすっかり暗くなっていて、千冬の顔がよく見えない。階段を上がると、背後から名前を呼ぶ声がどこか物悲しげに響く。
 付き合ってから初めて、帰り際に好きだと言われなかった。

 *

「今夜集会あるってよ。隊長だけの、大事なヤツ」
 三ツ谷から連絡が回ってきた。最近の東卍は落ち着いている。喧嘩が減り、皆で時々バイクを転がす程度だった。集会が行われるのは、今年初めてだ。
 神社に集まると、総長は息を大きく吸って宣言した。
「東卍は、三月をもって解散しようと思ってる!」
 まさに寝耳に水だった。
 どうやら他の創設メンバーも初めて聞いた様子で、各々が戸惑いの色を浮かべている。ただ一人、総長代理を除いて。
「タケミチ、反応薄くね?」
「マイキーくんから少し聞いてたんで……」
 一虎から訝しげに問われると、武道は困ったように笑った。
「皆に相談しようと思って。オマエらの意見が聞きたい」
「いいんじゃねぇ?」
「総長が決めたんなら、それでいいと思う」
「寂しいけど、そろそろオレらも次の道を探さねぇとな!」
 一人が言い出すと、賛成の声があちらこちらで聞こえる。切ないけれど、誰もがすっきりとした顔をしていた。
「あ、東卍は場地が創ったんだった。場地が決めろよ」
「結局オレに振ンのかよ!」
 マイキーの一言が衆目を集め、場地はコホンと咳払いをした。
「東卍は三月をもって解散だ。でも忘れんな。宝はいつもここにある!」
 にやりと笑い、拳で強く胸を打つ。太い歓声が沸き起こり、ヒュウと口笛が飛んできた。
「場地かっこい~!」
「宝、ねぇ……」
 仲間の反応を受け、場地はくさいセリフだったと気付いて赤面した。にやにやと生温かい視線が注がれる。
 けれど、皆どこかくすぐったそうな笑みを浮かべていて、場地は東卍を創った日のことを思い出した。茶化すのはおそらく照れ隠しなのだろう。
「じゃあ解散ってことで! 湿っぽいのはナシな」
「副隊長には隊長から伝えとけ。傍で支えてくれてたヤツを労ってやれよ」
 マイキーとドラケンが、晴れやかな顔でそう告げた。
「ぺーやんに何かしてやろっかなぁ」
「じゃあオレは、八戒が好きなメシでもつくってやるか」
「アングリーをたっぷり甘やかしてやろ」
 副隊長と特に仲の良い面々が顔を緩ませる。
 場地も千冬のことを思い浮かべた。東卍どころか、学校や日常でも支えられてばかりだ。千冬なら何をされても喜びそうだと想像して、自然と笑みがこぼれる。
「つーわけだから、早く千冬と仲直りしろよ」
 マイキーに後ろから肩を組まれ、場地は噛みつく勢いで振り返った。
「喧嘩してねぇし!」
「よそよそしいだろ。空気でわかンだよ」
「いつも半分コしてんのに、最近してないじゃん」
「千冬が場地くんを呼ぶ回数、明らかに減ってますよね」
 反論を無視した言葉が飛び交う。場地はさっきよりも顔を赤くして、居心地悪そうに舌打ちをした。
 あの日から、千冬とはすぐに普段通りに戻った。だけどそれは表面上の話だ。恋人としても、友人としても、距離が開いてしまった気がする。長くつるんだ戦友たちの目は誤魔化せないらしい。
「千冬と話しとけよ。何かあれば聞くからさ」
 ふてくされる場地にドラケンが笑いかける。
「ありがとな、ドラケン」
 こういうところが兄貴肌だよな。場地は素直にそう思い、笑い返した。
 澄んだ冬の夜空を仰ぐと、月明かりが柔らかく降り注ぐ。今宵も風は冷たいけれど、ふしぎと寒さを感じなかった。 

 *

 金曜日の放課後。週の終わりを告げる瞬間は、どこか浮ついた空気が漂う。いつもチャイムとともに千冬が飛んで来るけれど、この日は気が急くままに場地のほうから駆け寄った。
「千冬ぅ、放課後ヒマ?」
「うっす! 寄り道っスか?」
「海、行こうぜ」
 机に手を付いて、男の顔を覗きこんだ。今まで大事な話がある時、ふたりでよく海を眺めて話していた。それを察したのだろうか。千冬はくちびるをぎゅっと結び、静かに頷いた。

 一度自宅に戻り、着替えてから駐輪場で落ち合った。特攻服以外の格好で、バイクを転がすのは久々だ。排気音を轟かせ、馴染の道を辿っていく。海が近づくにつれて、心地よい潮風が頬を撫でた。
「やっぱいつ来てもいいな」
 到着してバイクを停めた。砂浜に降り立つと、ふたり分の足跡が残される。
 場地は長髪をかき上げながら海を眺めた。
 初日の出暴走で来たばかりの海だが、深夜とは姿を変えている。緩やかに寄せては返す白い波。水平線に沈んでいく夕陽が、水面を茜色に染めていた。
「きもちいっスね!」
 千冬は海に向かって駆け出した。声を弾ませて、うんと伸びをする。
 はしゃぐ千冬を久々に見た気がする。金髪が夕陽を跳ね返すようにきらきらしていて、思わず目を眇めた。
「ミルクティーで良かったよな」
遅れて場地は、進む背中に声をかけた。丸い瞳が此方を向いた瞬間、小ぶりのペットボトルを投げ渡す。
「あざっす! 金は……」
「いいって。オレが誘ったんだし」
 場地は苦笑して、砂浜に腰を下ろした。自販機で買ったばかりの缶コーヒーは、冷え切った指先を温めてくれる。千冬はもう一度礼を言って肩を並べた。
「三月に、東卍の解散が決まった」
 場地はプルタブを引き、湯気を見つめながら呟いた。
「そっスか」
「驚かねぇんだな」
「そんな気がしてたんで」
 もっと大騒ぎするかと思いきや、千冬は穏やかな口調で答えた。
「ありがとうな。千冬が壱番隊の副隊長でよかった」
 場地はすっと立ち上がり、感謝の想いを告げた。千冬に顔を向け、ふわりと長い髪が舞う。
 隊長として気の利くセリフを考えてみたけれど、頭に浮かぶのはシンプルな言葉ばかりだった。千冬が隣りにいてくれてよかった。オレを信じてついて来てくれたことが嬉しい。
「そ、そんなの……っ」
 千冬は隣りに並んで立ち、言葉を詰まらせて俯いた。
 砂浜には海水とは別の雫が、ぽつぽつと染みをつくっている。腕で乱暴に目元を拭い、ばっと顔を上げた。
「オレも……っ、場地さんについて行けて幸せでした! 松野千冬十五歳、場地圭介に憧れンのは、この先もずっと変わりません!」
 風に煽られた波は、高く上がって辺りに音を響かせる。
 真っ直ぐ向けられた双眸は、海のように澄んでいた。どこまでも迷いがなく、純粋で。
 場地は眉を顰める。もうひとつ、言わなければならない。話を切り出そうとした瞬間、先に千冬が口火を切った。
「場地さん。オレ、志望校変えました!」
 降ってきた言葉に、目を丸くした。
 それは場地にとって、東卍の解散ぐらい衝撃的なニュースだった。いつも一緒にいたいって、言ってたくせに。千冬は予想が当たったとでも言うかのように、いたずらっぽく笑う。
「それって第二志望だった進学校?」
「知ってたんスか?」
「こないだ職員室で見た」
 場地は眉根を寄せて、千冬を一瞥した。
「オレが言ったからか?」
「きっかけはそうですけど、オレ自身がどうしたいのか考えました。それでもすぐに浮かぶのは、やっぱりアンタの顔だった」
 千冬は眉を下げて笑った。ペットボトルに口を付けて続ける。
「でも依存してたら、きっとすぐダメんなる。オレは今だけじゃなくて、未来も場地さんと一緒にいたい。……そのために、今は自分を磨いて、場地さんが惚れるような男になります」
 よく通る声が耳朶を打ち、すっと胸に届く。
「ばかだろ」
 場地はちいさく息を吐いた。波に消え入りそうな声は、言葉とは裏腹に優しく響く。
「結局オレのせいじゃねーか」
「もっとベンキョーしてみたいって思ったのもホントです! 場地さんに教えるうちに、結果出ンのが楽しくなってきて。あ、これも場地さんのせいっスかね?」
 そう言ってばつが悪そうに頭を掻く。場地はふっと笑い、肩を揺らした。
 千冬は場地の背中を追うのではなく、肩を並べることを望んだ。自分を高める道を選びながら、好きな人と一緒にいるという夢は揺るがないなんて。場地が思うよりもずっと、千冬は我が道を行っているのかもしれない。
 千冬は凛と背筋を伸ばして、海の彼方を見つめている。その横顔を盗み見た瞬間、どくんと胸が高鳴った。
―――千冬って、こんな顔をするヤツだったっけ?
 場地の知る松野千冬は、素直でわかりやすく、犬みたいに後をついて来る可愛いヤツだった。
 いつの間に、大人びた表情をするようになったのだろう。まるで時間によって姿を変える海のようで、目が離せない。どくどくと心臓の音が、潮騒よりも強く、耳の裏で脈を打っている。
「寒ぃしそろそろ帰りましょうか」
 ぱちりと目が合って、咄嗟に場地は顔を背けた。勢い余って足元の砂が跳ね上がる。
「どうかしました?」
「いいから、すこし黙れよ」
「……こっち見てくださいっ!」
 両肩をつかまれて身体を強張らせる。触れられた箇所は燃えるように熱く、夕陽だけでは誤魔化しきれない。
「場地さん、顔……っ」
 続くだろう言葉を黙らせたくて、場地は千冬の口を塞いだ。
「ん……っ」
 柔いくちびるは、すぐに湿りを帯びて重なり合う。ほろ苦く、甘い味がする。吐息が首筋にかかって、体温はさらに上昇しそうだ。
「な……っ!?」
「恋人どーしなんだから、してもいいんだよな?」
 そっと離れ、場地は自身のくちびるをぺろりと舐めた。勝気に笑い、白い八重歯がこぼれる。
 今度は千冬のほうが赤くなる番だった。金魚のように口をぱくぱくさせている。
「オメー付き合うとか言うくせに、全然ちゅーしてこねぇじゃん」
「そ、それは両想いになってからと思って……」
 千冬は爪先を見ながら口籠る。
「両想い、だろ」
 掠れた声で囁き、正面から抱きしめた。ここまで密着したのは初めてだった。
 不器用な言葉を尽くすよりも、温もりや鼓動が伝えてくれる。千冬のせいで、そうなったのだと。きっとこれが、恋なのだと。
「オレ……ッ、もう嫌われたかもって。くっつかねぇほうがいいかもって、思ってました」
「嫌うわけねーだろ。千冬の手、あったけぇからちょうどいいンだよ」
 震える声が耳元を掠め、場地はぶっきらぼうに答えた。
「もうガマンしませんから。場地さん、こっち見て」
 緩められる腕のなか、場地は薄く目を閉じて顔を向けた。もう逃げないと決めたから。すぐ傍で、ごくりと唾を飲む音が聞こえた。
「好きです、場地さん」
 夕陽の照らす砂浜で、ふたつの影が重なる。穏やかな潮騒が、彼らを優しく包み込んだ。

 *

 桜の花が綻び、風は心地よい暖かさを纏う。三月半ばになると、すっかり春らしい陽気になっていた。
「卒業、おめでとうございます」
 背後からの馴染深い声に、場地は振り返った。
「千冬もおめでと。受験も、合格できてよかったな」
「あざっす! 倍率高ぇからびびってましたけど」
 ふたりは志望校に合格し、卒業式を迎えることができた。
 東卍は一週間前に解散したばかりで、まだ実感が沸かない。隊長や副隊長はきっと、集会がなくてもすぐにまた集まるだろう。
 学校と東卍。ふたつの接点がなくなってしまう。
「あン時は、悪かったな」
「あン時?」
「頭冷やせって言っただろ」
 黒髪を指先で弄りながら、気まずそうに呟いた。
 互いの選択に後悔はない。けれど、もっと良い伝え方があったのかもしれない。落ち着いた今になって、あの日の帰り道を思い出す。
「千冬がオレに縛られ続けンのかと思ったら、急に怖くなった。オメーの世界が、狭くなってくよーな気がしてよ」
 場地は決まりが悪そうに笑った。伝えるかどうか迷っていた想い。口にすると、思ったよりも胸が軽くなる。
「それは違います、場地さん」
 千冬は緩く首を横に振った。春風が木々を吹き抜けて、花びらが舞い上がる。
「オレは場地さんと出逢って、仲間のための拳があることを知りました。東卍でもたくさんの仲間ができて、ガッコもベンキョーも、楽しいって思えるようになった。オレの世界は、すげぇ広がったんスよ」
 今にも泣きそうな声。空色の瞳にためた雫をこぼすものかと、くちびるを震わせる。場地もつられて涙腺が緩んでしまいそうで、金色のつむじに視線を投げた。
 初めて出逢った頃よりも、千冬の背丈は高くなっていた。きっとこの先、もっといい男になるのだろう。
 千冬は場地しか知らない。もしも千冬が新しい運命を見つけたら、その時は自然に手放してやりたい。ばかみたいに真っ直ぐなこの男には、幸せな未来が似合っているから。
「成長するんで見ててください。場地さんがオレのこと放さねぇって思うくらい!」
 手首をとらえて千冬が笑いかけた。きっぱりとした口調。まるで場地の考えなど、お見通しとでも言うかのように。
 場地は強気な恋人に面食らって、瞳を数回瞬かせた後、ふっと噴きだした。
「すげー自信」
「オレは本気っスよ!」
「いーじゃん、見ててやるよ」
 目尻の涙を拭って顔を向けると、そのままぎゅっと抱きつかれた。まだ学校だろ。そう咎めようとすると、太陽のような笑顔が視界に入ってくる。
(いっか……、今日で卒業だし)
 つくづくこの顔に弱い。場地は苦笑し、逞しい背中を撫で返してやった。
 雪の代わりに舞い散る桜を、肩越しに眺める。
 ふたりの間にようやく春が訪れた。

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