朝の澄んだ空気を肺いっぱいに吸い込む。ついでに大きなあくびが、声とともに零れた。初夏の陽射しがまだ柔らかいのは、早起きしたおかげだろう。
「ポチは元気だなぁ」
隣の男が、愛犬によく似た長髪をなびかせてニッと笑った。ポチはご機嫌に長い前足で地面を蹴り、リードをぐいぐい引っぱる。
その足取りは散歩というより、もはやジョギングに近い。パーちんは彼らのペースについて行きながら、肩で息をしていた。
「場地ぃ、休憩しようぜ」
「もうへばってンの? だらしねーな、オマエの飼い主」
場地がいたずらっぽく笑って言うと、ポチがタイミング良く「ワン!」と一声。尻尾をぶんぶん振って、場地の胸に飛びついた。ここまで懐いている姿を見ていると嫉妬よりも笑いがこみ上げてきて、パーちんは思わず肩をすくめた。
「もう限界……」
いつもの散歩コースを一周し終えたところで、河川敷の草むらに寝転がった。まぶしい緑がさらさらと揺れる。腕で額の汗を拭うと、爽やかな風が吹き抜け、ふうと息をつく。
遅れて場地も腰を下ろし、ポチの腹を撫でさすった。
今朝はポチを連れて川沿いの土手を歩いていたら、偶然場地に出くわした。思いがけない再会に、破顔して喜び合う。犬の散歩中だと告げると、動物好きの彼は嬉々としてリードを奪い取るのだった。
場地の格好は、ハーフパンツにタンクトップで、サンダルをつっかけただけ。どう見ても寝起き姿だ。そういえば、この近所に場地があの男と借りたアパートがあったよな、とふと思い出す。
「いいなぁ。オレも犬飼いてぇ」
「オメーんとこにいるだろ、犬っぽいのが」
「あぁ? 千冬のこと?」
にやりと笑って頷くと、場地が怪訝な顔をこちらに向けた。
「犬じゃねえよ、あんなヤツ」
「場地さん場地さん!って尻尾振ってンじゃん」
「そんな可愛くねえ。それに、最近はオオカミっぽいし……」
ぶつぶつと口を濁し、眉間の皺がさらに深くなった。冗談に笑って返すと思いきや、不機嫌そうな様子。察しの悪い自分でも、なんとなく理由がわかってしまう。
「ルームシェア、上手くいってねぇの?」
「昨日の夜、言い合いになった」
「珍しいなー。千冬って、場地の言うことなら何でも聞きそうなのに」
パーちんは瞬きを繰り返しながら首を傾げた。
部屋探しの相談を受けたのは、桜がまだ蕾の頃だった。勉強はからっきしだが、不動産のことは家業のため自信がある。だから、悪友に頼られたときも、自然と力になりたいと思った。
友人間のルームシェアはトラブルが起きやすく、物件によっては禁止されているところも多い。しかし、いつも一緒にいる彼らなら、問題ないと思っていた。
「千冬って大雑把で、いつも脱ぎっぱなしにすンだよ! 何度言っても全然直ンねぇ! そのくせ頑固なとこもあってさ、こないだなんか……」
場地の口から愚痴が次々と溢れてくる。ただ聞いてやるしかなく、適当に相槌を打ちながらも、パーちんはその表情が気になってじっと見つめた。
「愚痴ってるわりに、なんか嬉しそうだな」
思ったままを言うと、場地の愚痴がぴたりと止まった。頬が赤く染まり、乱暴に頭をかきながら舌打ちをする。
「……なんでわかンだよ」
「だって声が明るいしよォ!」
パーちんは場地の背中を豪快に叩いた。
ああ、そうだ。今の場地の声は、東卍でケンカするときみたいに弾んでいた。
「ルームシェアを決めたとき、千冬がオレに合わせて無理しねえか心配だったんだ」
「アイツ、場地のことすげー好きだもんな」
「でも千冬って、自分の意見はハッキリ言うんだよ。それがムカつくけど、……嬉しい」
ポチの顎を撫でながら、場地は照れくさそうに目を細める。その小さな声は、きっと本音だ。
「千冬には言うなよ。チョーシ乗るから」
「言ってやれって! この先も一緒にいたいなら、腹を割って話さねぇと!」
「まともなこと言うじゃん……」
子どものように拗ねる場地に、パーちんは声を立てて笑った。
「千冬とならぜってぇうまくいくって。喧嘩上等じゃねーか。オレなんか、しょっちゅうぺーやんとケンカしてンぞ!」
「そうだな。ありがと、パー」
拳を突き出すと、場地がこつんと当ててくれた。
「場地さーんっ!」
聞き慣れた声が、土手の方から響いた。息を切らしながら、千冬が駆け寄ってくる。まるで噂をすれば、だ。
「よかったぁ。起きたら隣に場地さんがいないから……オレのこと嫌になって出てったのかと思って……!」
「頭冷やしてただけだ。離れろ千冬」
「いやです……っ!」
千冬は膝をつき、場地を後ろから抱きしめて顔をうずめた。驚いたポチが後ずさりしながら吠えている。
「千冬、久しぶりだな!」
「パーちんくん! すんません、みっともねぇとこ見せちまって」
「とりあえず鼻拭けよ」
「あざっす!」
千冬は場地をぱっと解放し、受け取ったポケットティッシュで鼻をかんだ。涙の跡がうっすら残っている。場地に見捨てられたと思って、慌てて探しに来たのだろう。
「やっぱりオレには、千冬が犬に見えるワ」
「なんのことっスか?」
「場地はオオカミって言うからよー」
「パー、黙れよマジで」
ストレートな拳がパーちんの肩に入る。呻きながら視線を向けると、場地が真っ赤な顔でこちらを睨んでいた。
「帰ンぞ、千冬ぅ。腹減った」
「オレが作ります! 昨日は、その……すみませんでした」
「オレも悪かった。ちゃんと話がしたい」
「はいっ!」
ふたりは腰を上げて、手を振りながら帰っていく。
なんだかんだで、きっと上手くいくのだろう。ほっと息をつきながら、パーちんは空を見上げた。
朝起きて隣にいなかっただけで、あそこまで取り乱すなんて。千冬はほんとうに忠犬のようだ。
「ん……? アイツら、一緒に寝てんのか?」
ふと遅れて違和感を覚え、首を傾げる。けれどポチに鼻先でつつかれ、促されるように歩き出す。
難しいことは、どうでもいい。彼らが笑い合う未来につながっているのなら、それだけで十分だ。
陽射しが強くなる前に、急いで帰路を辿る。疲れているはずなのに、その足取りはどこか軽やかだった。
―――数年後。広めの部屋を借りにきた彼らを前にして、あの時の違和感の正体にようやく気づくのだった。
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