冬に口付け

 一年が塗り替えられる前の人々は、どこか浮き立っている。松野千冬もそのひとりだった。バイトを終え、軽やかな足取りで帰路に着く。身を切るような冷たい風が吹き付け、ぶるりと身体を震わせた。
「やっと終わった!」
 うんと伸びて解放感に浸る。師走に入ると、慌ただしく時が過ぎていった。クリスマスに一緒に過ごせたら…… なんて期待も虚しく、場地との連絡はままならない状況が続いている。それでも誕生日に祝いの電話をくれたのは嬉しかった。彼の声を聞いたのは、それきりだった。
「場地さん、年末はどうすんのかな」
 会いたい気持ちが雪のように募っていく。細く吐かれた嘆息は、白く染まって霧散した。ぼんやりしながら団地の階段を上がると、聞き馴染みのある音が近づいてくる。千冬は耳を澄ました。何度も胸を熱くさせる、エンジン音だ。
「もしかして…… !」
 階段を跳び降りて、音の鳴る方へと駆け出した。目の先にいる男がバイクを停めると、長い髪がふわりと宙に舞った。
「久しぶり」
 穏やかな声が静寂を揺らす。漆黒の長い髪が、やわらかな月の光に照らされている。幻想的な光景に目を奪われた。
「場地さん、帰ってたんスね」
「年末年始は実家で過ごすことにした」
 場地が八重歯を見せて笑った。その瞬間、胸に明かりが灯るような心地がした。
「それに…… 会いたかったし」
 くるりと髪を指に巻き取りながら、ぶっきらぼうにつぶやく。見つめられ、どきりと胸が高鳴った。
「ペケJ、元気?」
 そわそわしながら尋ねられ、千冬は肩を落とした。一瞬、自分のことだと思ってしまった。穴があったら入りたい。けれど場地は、ペケJとは半年以上も会えていないのだ。それなら仕方ない。千冬は愛猫に勝ちを譲り、微笑んだ。
「上がってってください。ペケも喜びます」
「やった。荷物置いたら少し邪魔するワ」
 場地は声を弾ませて、階段を駆け上がった。その広い背中を見送りながら、千冬は頬が緩むのを感じる。たった数日だけれど、想い人がすぐ会える距離にいるのだ。そう思うだけで、心が温まっていく。いつの間にか浮き立つのは、年の瀬だからという理由だけではなくなっていた。

 家族との時間を過ごしながらも、ふたりは部屋を行き来した。他愛ない会話をして、漫画を読んでくつろぐ。それだけの時間が、彼らにとって心地よいひとときだった。
「初詣に行きませんか?」
 そう切り出したのは大晦日の夜。通話での誘いに、場地は快く応じた。好きなひとと過ごせるなんて、最高な一年の始まりだ。千冬は携帯を握りしめながら、胸を躍らせていた。
 
 年が明け、外は新年にふさわしい快晴だった。カーテンを開け、日の光に目を細める。約束の時間になり、千冬は身支度をして家を飛び出した。
「お、良いタイミング」
 ドアを開けると、ちょうど階段を下りる場地の姿を捉えた。見上げると、此方に気づいて手を振っている。それだけで、自然と顔が綻んだ。
「明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします!」
「こっちこそよろしく」
 朝から元気の良い挨拶を浴び、場地は噴き出すように笑った。
「そんじゃ、行くか」
 ポケットから鍵を取り出し、くるりと指で回す。バイクに跨り、かつて集会で使われた神社へと向かった。並んで走ると、東卍で過ごした日々を思い出して気分が高揚する。冷たい風を切って、彼らはエンジン音を豪快に鳴らした。

「混んでますね」
「だな。とりあえず並んどくか」
 早朝を避けてみたものの、午前の神社はまだ賑わいを見せていた。道中振る舞われた甘酒をちびちび飲みながら、参拝者の列に連なった。話しているうちに、あっという間に自分たちの番が近づく。小銭を賽銭箱に放り込み、見よう見真似で鈴を鳴らした。
(今年こそ…… )
 両手を合わせて念じると、何も音が聞こえなくなるような気になった。たった数秒が、長い時のように感じられる。参拝を終えると、隣りにいた場地はすでに列から外れている。慌てて彼の元へ駆け寄った。
「ずいぶん長かったじゃん」
「今年は勝負に出るんで」
「あー、もうすぐ就活だもんな」
 それだけではないけれど。千冬は苦笑しながら心の中でつぶやく。目の前のこのひとの、特別な枠に自分が入っているのだ。
(今年こそ、ビシッと想いを伝えよう)
 新たな決意を胸に秘め、千冬は真っ直ぐに場地を見つめた。
「何かメシでも食ってく?」
「いいッスね」
「あれ、場地と千冬じゃね?」
 来た道を戻る途中、聞き慣れた声が投げかけられた。振り返ると、そこには懐かしい顔ぶれがそろっていた。
「マイキーくん!」
「ドラケンとエマも…… 来てたんだな」
 どら焼きを頬張りながら、マイキーがふらりと現れた。総長の頃とは違って黒髪でも、その飄々とした物腰は変わらない。後から遅れてドラケンとエマが、並んでやってきた。
「場地、こっち帰ってたんだ」
「まぁな。なに正月からどら焼き食ってんだよ」
「和菓子屋が出店してた」
 場地の手をひらりと躱し、マイキーはご機嫌な様子でキッチンカーを指差した。
「オマエらはどーすんの?」
「もう帰るとこ」
「だったら家に寄ってきなよ! 突き立てのお餅もあるし」
 両手を合わせ、名案だという顔つきでエマが声を弾ませた。
「今朝ケンチンと餅つきしたんだ」
「コイツ容赦なく杵振りかざすんだよ。二度とやらねえ」
 笑顔のマイキーとは対照的に、ドラケンが顔をゆがめる。彼の気苦労を悟り、場地たちは頬を引き攣らせた。
「めんどくせーからいいワ。行くぞ、千冬」
「うっす!」
 素っ気ない場地の後を追う。幼馴染なら積もる話もあるだろうと思っていた千冬は、彼の反応が意外だった。
「ざーんねん。それなら千冬だけ来いよ」
 後ろからぐいと肩をつかまれる。有無を言わせぬその圧は、さすが元総長というべきだろうか。支配される心地に、ぞくりとした。
「場地のガキの頃の話聞かせてやる」
「ちっちゃい頃の写真もあるよ」
 横で妹も笑顔で追い討ちをかける。それらは千冬にとって、魅力的な誘い文句だった。突き立ての餅よりも、ずっと。
「おいドラケン、この兄妹止めろよ」
「止められると思ってんのか?」
 ドラケンが苦笑する。その達観した口ぶりは、日頃からこの兄妹に振り回されているからだろうか。場地は深いため息をつき、先を歩く幼馴染たちの後に続くのだった。

バイクを走らせること数分、着いたのは和風な邸宅だった。近くの道場はしんと静まっていて、元日はさすがに閉まっているようだ。
「おじいちゃんは町内会の行事に出掛けてるんだ」
「そうか」
 場地がぎゅうと眉を寄せる。その表情は、安堵と寂しさが入り混じったような、複雑な顔だった。
「マイキー、線香上げてもいいか?」
「ああ、そっちの部屋」
 奥の和室へと通されると、場地は仏壇の前の座布団に腰を下ろした。千冬は後ろから見ても、写真のそのひとが、真一郎だとすぐにわかった。目元が弟のマイキーとよく似ている。場地はじっと、彼を見つめていた。
「千冬、先に行ってよーぜ」
「あの感じ、長くなりそうだしな」
 本当はすぐに寄り添いたかった。いつも大きく見える背中が、どこか頼りなく見えたから。だけど、きっと場地は望まない。千冬はぎゅうと堪え、促されるままに居間へ向かった。

「さあ、どうぞ!」
 こたつに足を入れて温まってきた頃、餅が乗った大皿が、目の前に運ばれてきた。香ばしい匂いが食欲を誘う。醤油、きなこ、餡子と、多数の味がずらりと並んでいる。瞳を輝かせ、男たちは餅に食らいついた。
「うめぇ! スーパーのとは違ぇな」
「まだあるから、たくさん食べてね」
「オレとケンチンが息ぴったりで突いた餅だかんな!」
「オレが合わせてやったんだろーが!」
 得意げに胸を張るマイキーに、突っ込みを入れるドラケン。懐かしいやり取りに口元が緩んだ。
「場地さんって昔はよく泣いてたんスね」
「テメェら、コイツに何吹き込んだンだよ」
「場地の今よりずっとカワイイとこ。な、千冬」
 びよんと餅を伸ばしながら、マイキーがにやりと笑う。場地の鋭い視線が、今度は自分にも刺さる予感がする。千冬は「ちょっとトイレ」と言い、さりげなく席を立った。
 廊下に出ると、居間の熱気から離れてひんやりとしていた。ねえ、と後ろから呼び止められる。振り向くと、物言いたげな面持ちのエマが立っていた。
「ごめんね、無理に連れてきちゃって」
 ばつの悪そうな顔で話す。集会に時々現れる、総長の妹。認識はあれど、千冬が直接彼女と会話を交わすことは、今までなかった。
「場地のこと知ってんだよね? あの日からずっと道場にも来れなくなっちゃって。こうでもしないと、家には来てくれそうになかったから」
「それは仕方ねえよな…… 」
「うん。だから今日来てくれて、マイキーも嬉しそう」
 そう言って、エマは眉を下げて微笑んだ。すれ違ったままの兄と幼馴染を、ずっと見守ってきたのだろう。綺麗に咲くその笑顔に、言葉を詰まらせた。
「場地が今も楽しそうなのは、キミのおかげなのかもね」
 ずいと顔を覗き込まれる。溢れおちそうな大きな瞳。花のような香りがふわりと鼻を掠め、愛らしさにどぎまぎとした。
「オレは別に何もしてねぇよ」
「好きなんでしょ? 場地のこと」
 こそりと耳打ちされる。彼女を一瞥すると、くちびるがにんまりと孤を描いていた。
「場地さんのことは、尊敬はしてるけど…… ッ」
「目が好きだっていってるもん。集会にいたときから気づいてたよ」
 会話をしたことのない少女の目にも、わかりやすく映っていたなんて。そう思うと、顔に熱が集中していく。
「アイツ昔っから鈍いから、がんばってね」
 エマは手をひらひらさせながら、台所へ引っ込んでしまった。猫のようにつかみどころがないところは、兄妹そっくりだと千冬は感じた。

「誰ッスか、場地さんに飲ませたの」
 居間へ戻ると、テーブルにはプルタブの開いた缶ビールが置かれていた。飲み始めたばかりでほろ酔いのようだが、場地は陽気に笑っている。
「千冬、悪いな。オレは止めたんだけど」
 そう言うドラケンだが、彼の片手にもしっかり缶ビールが握られていた。
「オレら単車で来たのに」
「ニケツすりゃいいじゃん。千冬は飲んでねえんだし」
「酔っ払い後ろに乗っけんの、危なくねッスか?」
「ンな飲ませてねーよ。なあ、場地、後ろ乗れそう?」
「おう、千冬に抱きつくからヘーキ」
 場地はふにゃりと笑って、千冬に寄り掛かった。頬が肩に触れ、長い髪がくすぐったい。千冬は素面とは思えないほどに、首筋まで真っ赤に染め上げた。
「オメェら相変わらず距離近ぇよな」
「こないだ場地んち遊びに行ったら物が増えててさぁ。全部千冬のモンだっつーからビビるワ」
「マジかよ」
 彼らはげらげらと声を立てて笑った。千冬は場地の家へ泊まりにいくたびに、私物を持ち込んでいたのだ。そのままにしてくれているのだと思うと、面映ゆい気分になる。
「てっきりあの子と付き合い出したのかと思ったのに」
 ビールとともに流し込まれた言葉に、千冬は耳を疑った。
「あの子…… ?」
「知らね? 場地、職場に気になる子いるんだって」
「春にいなくなるから寂しいって嘆いてたよな」
 千冬は瞳を瞬かせ、隣りを一瞥した。話題の渦中の人物は、うとうとと船を漕ぎ出している。今すぐ問い正してしまいたい。けれど、果たして自分には、その資格があるのだろうか。場地からは何も言われなかったのだ。マイキーやドラケンには、相談していたというのに。
「今まで彼女つくろうとしなかったから、うまくいくといいよな」
「そうッスね」
 友人想いの彼らに、ゆるく同意して笑ってみせた。穏やかな表情とは裏腹に、千冬の胸には薄暗い感情が渦巻いている。意中の相手への嫉妬心か、それとも相談されなかったことへの寂しさか。きっとその両方だ。
「そろそろ帰ります。場地さん、立てますか?」
「んー」
 呼びかけに答え、場地はすっと立ち上がった。思ったよりも意識があるようで安堵する。マイキーとドラケンに挨拶して、玄関へと向かった。
「帰っちゃうの? 餅持ってってよ」
 戸の音に気づき、エマがぱたぱたと駆け寄る。ご家族にどうぞ、と袋を差し出した。
「場地をよろしくね」
 エマは小声で言って、手を振って見送ってくれた。この恋はきっと望みが薄いだろう。彼女にそう告げることができず、千冬はただ曖昧な笑みを浮かべて会釈した。

 場地の愛機は佐野家に置いて、後で本人に取りに行かせることになった。面倒がる彼の顔が目に浮かぶが、仕方がない。千冬が場地をバイクの後ろに乗せるのは久々だった。場地は宣言通り、両腕を千冬の腰に巻きつけている。振り落とす心配がないくらいに、きつく、強く。いつもの千冬なら舞い上がっていたかもしれない。けれど今はただ、重たい鎖のように感じられた。
「場地さん、着きましたよ」
 団地に到着し、バイクを停めた。絡み付いた腕を軽くたたく。場地は歩ける様子だが、おぼつかない足取りだ。一応、玄関まで送り届けることにした。
「明けましておめでとうございます。新年早々すいません…… 」
「おめでとう。悪いね、千冬。おい、ケースケ! 友達にメーワクかけんじゃねぇよ! もうイイ大人だろーが!」
 容赦なく母親の蹴りが入る。イッテェ!と場地は喚き、足を引き摺りながら自室へ逃げていった。昔と変わらない親子のやり取りに、千冬はくすりと笑った。
「オフクロのヤツ…… そんな酔ってねぇっつの」
「酔っ払いはみんなそう言うんスよ。場地さん、水飲んで」
 場地は押し入れの寝床に腰を掛け、水を受け取るとこくこく飲み干した。こっ酷く叱る母親だったが、すぐに「水持ってってやんな」と差し出してくれた。愛情があるからこそ、場地は母親には強く逆らえないのだろう。
「また世話になったな。ありがと」
 ほっと一息ついて、場地はそのまま横たわった。数分もしない間に、すうすうと寝息を立てる。実家に着いた途端、安心してすっかり気が緩んでしまったようだ。
「マイキーくんち行くの、緊張してたんスよね」
 毛布を掛けて、千冬は愛しいひとの寝顔を眺めた。汗で張り付いた前髪を払ってやる。近づくと、ぎしりと寝床が音を立てた。
「誰なんスか」
 その声は小さく、驚くほどに冷たい。
「アンタの想う相手って、どこの誰なんスか」
 このひとの考えていることは、わかると思っていた。ずっと近くで見ていたから。確信をもち始めていたのだ。もしかして、自分と同じ気持ちでいてくれてるんじゃないかって。
「オレにしときなよ」
 千冬はきれいな寝顔に、くちびるをひとつ落とした。神様に誓ったばかりなのに、こいねがう。このひとのすべてがほしい。アンタを想う気持ちだけは、誰にも負けないから。

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