正月気分も抜け、短い休暇を終えると、場地は一人暮らしの部屋へ帰っていった。元ある日常は、ひとつのピースが欠けたまま進み続けている。
——— オレにしときなよ
ベッドに横たわると、切なげな声が反芻されて舌打ちをした。夜ひとりの時間、手が空くと余計なことばかり考えてしまう。頬をなぞる。生々しく残る感触が、現実なのだといやでも突きつけてきた。
あの日、千冬にキスをされた。連絡は正月からぱたりと途絶えてしまった。原因はあの一件以外に考えられない。曖昧な記憶を手繰り寄せても、詳しいことはわからないままだった。
「あー、めんどくせえ!」
本人に訊くのが手っ取り早い。そう思い立ち、場地は携帯電話を手にしたまま上体を起こした。今、電話していい?と簡潔なメッセージを送る。数分後、驚くほどにあっさりと承諾の返信が届いた。
『場地さん! こんばんは』
通話ボタンを押してワンコール。いつもの明るい声音が、場地の耳朶を揺らした。
「こんばんは…… って何このアイサツ」
『電話だと思うと緊張しちまって。どうしたんスか?』
「別に。何してっかなと思って」
『テレビ見てました。場地さんは?』
「ぼーっとしてた」
気づけば他愛のない会話が続いていた。あまりにも自然だった。感じた気まずさは、ただの杞憂かもしれない。ふと気が抜けて、口元から安堵の声が零れた。
「オマエってこの前、オレにさ」
——— キス、したよな? さりげなく聞けばよかったのに。酔ってたんだろ?って笑い飛ばせばよかったのに。場地は言葉の続きを、喉の奥で詰まらせた。本気のキスだとしたら、何て答えてやればいい?ありがとうと、受け入れるべきなのか。ゴメンと、突き放すべきなのか。どちらにしても、この心地よい関係は、一瞬で変わってしまう。そう思った途端、柄にもなく、臆病な気持ちが芽生えてしまった。
「いや…… 久々に遊びに来ねえ? ゲーム買ったんだけど」
『その、しばらく行けそうにないです。課題が多くて…… 』
歯切れ悪く千冬が答える。すぐに誘いに乗ってくるだろうと期待していただけに、肩透かしを食らった気分だ。
「そっか。しゃーねえな」
『ほんとすんません! でも誘ってもらえて嬉しいッス!』
キンとするほどの大声が耳を突く。焦っている様子が目に浮かんで、思わず苦笑した。通話を終えようとすると、あの、と呼びかけられる。
『落ち着いたら連絡しますね』
「おう」
場地は素っ気なく返事して、通話を切った。横たわると視線の先には、薄青色のマグカップが鎮座している。
「来ねえなら置いてくんじゃねーよ」
食器棚を一瞥して、拗ねるようにつぶやいた。いつもと変わらない様子の千冬に拍子抜けしてしまった。
あの日のキスは事故だ。互いのためにも、そうしておいたほうが良い。自身に言い聞かせ、苦い想いを胸の奥に仕舞い込んだ。
もし、もし万が一、あのキスが恋しい相手にするものだったとしたら。自分は千冬に何と応えてやるのだろう。ただひとつはっきりとしてるのは、あの男に会える日を今も心待ちにしている、ということだけだった。
*
朝からの業務を終え、時刻は正午を回っていた。場地はバックヤードのパイプ椅子に腰を掛け、窓の外に目を向けた。蕾の膨らんだ桜の木々が並んでいる。慌ただしく時は流れ、春がすぐそこまで近づいていた。
「またぺヤング? 栄養偏るよ」
容器にかやくを入れ、湯を注ぐこと三分間。手元を覗き込まれ振り返ると、職場の先輩だった。彼女は弁当箱を携えて、隣りに腰を下ろす。
「カンタンでウマいじゃないスか」
「けど心配だわ。自炊してんの?」
「してますよ」
場地はシンクで湯切りしながら、愛想笑いで受け流した。週末に千冬が泊まりに来ると、ふたりは交代で自炊していた。少しずつ上達し、レパートリーも増えていった。最近はすっかり、料理の腕を振るう機会がなくなってしまったけれど。ソースを麺にかけて混ぜると、ちょうど良い固さでほぐれる。満足げに容器を持って席に戻った。
「そういえば、もうすぐあの子とお別れだね」
弁当を箸でつつきながら、先輩が話しかけた。思わず顔を上げて反応すると、彼女は楽しげに会話を続ける。
「場地くん、寂しいんじゃない?」
「そうっスね。でもアイツ、いい人にめぐり会えてよかったです」
場地は眉を下げて笑った。離れてしまうのは寂しいけれど、どこかで幸せになっていると思えば、それだけで満たされる。それはきっと、付き合いの長い友人にもいえることだろう。
「先戻ります」
完食して菓子をつまんでいると、休憩時間の終わりが近づいていた。身なりを整えて、売場へ繋がるドアを開けた。
「あれ、場地くんじゃないスか?」
懐かしい声。そこにいたのは、かつて同じチームの戦友だった。
「場地くんの職場だったんスね! すいません、仕事中ッスよね?」
武道は、緊張しながら此方の顔色をうかがう。その癖は変わらないが、歳相応に落ちついた物腰だった。場地がまだ休憩時間だと告げると、武道はホッと胸を撫で下ろした。
「猫飼いてぇの?」
「彼女が興味あるみたいで。今日は見にきただけなんスけど」
連れの彼女は、ゲージに寄って猫を眺めている。遠目でもわかる美人だ。中学の頃に武道の隣りにいた少女だと気づき、場地は口元を緩ませた。
「気になるヤツいたら声かけろよ。ゲージから出してやるから」
「あざっす!」
武道はぱっと顔を上げて笑顔を向けた。
「こないだ千冬がうちの店に来ましたよ。アイツ、相変わらず場地くんの話ばっかッスね」
そう言って武道は苦笑した。共通の友人の名に、どきりとする。自然な話題のはずなのに、何を動揺しているのだろう。
「千冬とは会ってますか?」
「最近は会えてねえな」
「忙しそうッスもんね。千冬、海外行くらしいし」
そこには聞き慣れない単語が混ざっていて、場地は目を見開いた。
「海外…… ?」
「来週には行くみたいッスよ。聞いてませんか?」
海外ということは留学だろう。何年も会えなくなるのだろうか。自分には何も告げずに行くのだろうか。次々と湧き出る疑問が、脳内を駆け巡る。
「千冬のヤツ、場地くんには言うつもりだと思うんスけど…… 」
「何もねえってことは、心配すんなってことなんだろ」
武道はしゅんとした表情で肩を落とした。まるで叱られた犬みたいだ。思わず笑いながら、場地は武道の背をおどけて叩いてやる。
「応援してやんねぇとな」
ニッと笑い、軽く手を振ってから踵を返した。口元に描いた弧は徐々に下がり、眉はぎゅうと皺を寄せる。胸に小さな穴が空き、少しずつ広がっていくような、そんな虚しさに襲われた。
遠くに離れていても、どこかで幸せになっていればいいと。たった今、そう思っていたはずなのに。
(なんで千冬だと、こんなにモヤモヤすンだよ)
店員さん、と遠くで呼ばれ、早足で向かう。ぽっかりと空いた穴を埋めるかのように、目の前の仕事に集中し続けた。
*
タイムカードを切り、店の裏から外へ出た。まだ薄く明るい空が広がっている。残業するつもりでいたら、定時で上がるように促されてしまった。業務に支障はなくても、元気のなさを感じ取られてしまったらしい。仕方なく、遠回りをして帰路を辿った。
(こんなとこに喫茶店あったんだな)
路地裏を歩くと、昔ながらの喫茶店が目に留まった。いつもなら通り過ぎていただろう。小さな黒板のメニューを目で追うと、自然と腹の虫が鳴ってしまった。やはりペヤング一つではたりなかったらしい。気分を変えてみようと、初めての店へ足を踏み入れた。
重厚なドアを開け、奥のテーブル席へ通される。隣りの席には先客がひとり。コーヒーを飲んでいるだけなのに、物憂げな横顔が絵になるような男だった。
「一虎……!?」
見惚れた相手がよく知る男だと気づき、声を上げる。スーツ姿だからか、すぐには気づけなかった。一虎が振り向くと、リン、と涼やかな鈴の音が鳴った。
「場地、なんでここに…… 」
「オレの職場近くてよ。一虎は?」
「仕事でこの辺に用があったんだ。今日はたまたまスーツ」
場地は向かい席に腰を下ろす。軽い会話を交わした後、彼らの間に沈黙が漂った。
出所した後パーちんの事業を手伝っていると聞き、場地は何度も一虎の元へ足を運んでいた。けれど、会うたびに苦しげに笑う彼を見て、負担になっていることに気づいてしまった。更生が落ち着くまでそっとしといてやれ、と周りに諭され、少し距離を置いていたのだ。突然降ってきた再会に、嬉しさと気まずさでてのひらに汗が滲む。
「場地はメシまだ? 注文すれば」
一虎にメニュー表を手渡される。彼が飲んでいたのは、食後のものだそうだ。場地は店員に、オムライスとコーヒーを注文した。
「今の仕事はどうなん? うまくやってんの?」
「ああ、バイトだけどな。パーのとこ手伝いながら、やりたいこと探してる」
金色のメッシュが入った黒髪は、長く伸ばされ一つに括られている。首筋のタトゥーは隠されて、彼にしてはおとなしい格好だった。
「その髪とピアス、大丈夫なんだな」
「最初ダメ出し食らったけど、女性客のウケいいからって許された」
一虎は髪を指先に絡めながら、あっけらかんと笑った。数カ月前に比べたら、だいぶ見られるような笑顔になっていた。過去の罪を抱えながら、一虎も前へ進んでいる。場地は緊張が解け、握っていた手を開いた。
「場地は就職したんだよな。調子はどう?」
「仕事はうまくいってる」
「彼女とかできた?」
「ねえよ。恋なのか、よくわかんねえし」
悩みのタネを思い出し、口籠ってしまう。その変化を、一虎は見逃さなかった。
「へえ、気になる相手がいるんだ」
一虎が身を乗り出し、楽しげに鈴が揺れる。金色の瞳がきらりと瞬き、好奇心を覗かせた。場地が苦々しく口を開こうとすると、ちょうど料理が運ばれてきた。
「食いながらゆっくり話せよ」
一虎は頬杖をついて、にやりと笑った。
外装の印象通り、オムライスもどこか懐かしい味がした。卵のやさしい甘さが、疲労の身体に染み渡る。一度空腹が満たされると、気持ちも落ち着くようだ。スプーンを口に運びながら、場地は千冬との関係をかいつまんで話した。
「恋か友情かねぇ…… ようはヤレるかヤレねぇかじゃね?」
開口一番、一虎がさらりと言い放ち、場地は絶句してコーヒーを噴き出しそうになった。
「相談相手間違ったワ」
「ゴメンって!」
席を立とうとすると腕を掴まれる。そうだ、とわざとらしく一虎から話を切り替えた。
「ネンショーにいた頃、時間あったから本ばっか読んでてさ。そん中に書いてあった。恋か友情かは、『幸せにしたい』か『幸せになってほしい』かの違いだって」
穏やかな眼差しが、此方へ向けられる。
「オレは場地に幸せになってほしい、ダチとして。オマエみてぇな優しいヤツ、幸せになんなきゃダメだ」
一虎は言い募ると、コーヒーを一気に飲み干した。手元がそわそわと落ち着かない。照れ隠しだと察して視線を向けると、コホンと咳払いをひとつした。
「場地は、千冬に対してどう思ってんの?」
リン、と鈴の音が響く。
(幸せにしたいか、なってほしいか、なんて)
場地は瞼を軽く閉じ、ひとつ年下の親友に思いを馳せた。楽しい時もつらい時も、いつも傍にいた。まぶしい笑顔、ひとのために流せる涙。ころころと変わる表情が、見ていて飽きなかった。
突然いなくなると知って、なぜ寂しかったのか。千冬とこの先、どうなりたいのか。数秒の沈黙の末、ひとつの答えが浮かび上がる。
「答えでたんだ」
「なんで…… 」
「ンな顔してりゃな」
指摘して、一虎がふっと噴き出して笑う。今日一番の笑顔だ。友人としてその顔が喜ばしいはずなのに、どうしても気恥ずかしさが勝ってしまう。場地は残りのコーヒーを飲み干して、伝票を手に席を立った。
「払ってくれんの?」
「相談料。ありがとな、スッキリした」
一虎が後ろから肩を組んできて、それならもっと奢らせればよかったー、なんて軽口を叩く。昔のような、遠慮のないやり取りが嬉しくなる。会計を済ませ外へ出ると、茜色に染まった空が、視界いっぱいに飛び込んできた。
「オレ将来自分の店もちたいって思ってんだ。そん時は一虎、一緒にやろーぜ」
場地は夕陽を背に、八重歯を見せて笑った。まるでチームに誘うかのような口ぶりだ。少年の日に共有した高揚感が、胸の中で疼きだす。
「好待遇なら考えとく」
「オレも一虎には、幸せになってほしいと思ってるから」
「ンなこと言うの、場地くらいだよ」
一虎は顔をゆがめて笑った。けれど、心が千切れそうな笑顔ではない。今度は気軽に会おうと約束し、彼らは手を振って別れた。
歩きながら、朱く染まる空を見上げた。早く千冬に会いたい。泣きそうなほどに優しい夕陽を眺めると、余計にそう思えてしまった。
*
夜が更け、食事や入浴を済ませ、部屋で寛ぐ時間だった。そう、いつもなら。落ち着かないまま、場地は背をソファに預ける。時計の秒針の音が、やけに大きく聞こえる。テレビを付けても気が紛れることはなく、電源を切ってリモコンを放った。
数時間前、『会って話したい』とメッセージを送った後、千冬からの返事はすぐに返ってきた。
『オレも会いたいです。バイト終わってから行ってもいいですか? よければ、場地さんちに泊まりたいです』
泊まり、という言葉にどくんと胸が高鳴る。何度も泊まりに来ているというのに、何を今さら。勝手に速まる鼓動に、我ながら呆れてしまう。次の日が休日だと確認し、『了解』と返事を打つだけで精一杯だった。
約束の時間が近づき、時計に目を向ける。インターホンが鳴り、びくりとしてソファが弾んだ。深呼吸をした後、玄関へ向かった。
「お疲れさん」
「夜分にすいません。おじゃまします」
ドアを開けると、暖かい夜風がふわりと部屋に舞い込んだ。千冬は小声で挨拶して部屋へ上がる。いつもの「ただいま」がなくなっていて、場地は小さな寂しさを覚えた。
「飲み物淹れるから座ってて」
「お構いなく!」
場地は手土産を受け取ると、台所へ向かった。ホットココアを作り、手際良く盆に載せて部屋に戻る。すると、そこには正座で待つ千冬の姿があった。肩を強張らせ、時折下を向いて、小さく息を吐き出している。
(千冬も緊張してんのか)
呼びかけると千冬は大きな返事をし、ばっと振り返った。
「ラクにしろよ。いつも自分の家みてえにしてたくせに」
「そうでしたね」
千冬は苦笑しながら足を崩した。場地は隣りに座り、テーブルに食器を並べる。
「オレのマグカップ! 使ってくれて嬉しいッス」
場地から薄青色のマグカップを受け取ると、愛おしそうに眺めた。やっと日の目を浴びたそれは、勢い良くココアの湯気を立てている。部屋に残された千冬の私物は、最後に泊まりに来た状態のままだ。千冬を思い出すから片付けてしまおうと何度も考えた。だけど、できなかった。また急に泊まりに来るんじゃないか。心のどこかで、そんな期待をしてしまったから。
「うちで使うのは、これで最後になるだろうけどな」
カップに口をつける。ココアの甘ったるい後味が、ひどく舌に纏わりついた。
「海外、行くんだろ? 頑張ってこいよ」
場地は千冬に向き合い、笑みをつくってエールを送った。窓硝子に映る自分を一瞥する。大丈夫、自然に笑えている。
「タケミっちから連絡きました。すんません、黙ってて」
「謝ることねぇよ。水くせぇな、とは思ったけど」
千冬は眉を下げ、焦りを表情に滲ませる。予想通りの反応に、場地はくつくつと笑った。同時に胸の奥がちくりと痛む。やはり自分には告げず、海外へ旅立つつもりだったのか。それも予想通りというわけだ。
「どんくらい行ってくんだよ」
「語学研修で、二週間ッス」
「二週間!?」
期間だけは予想を外していて、場地は目を見開いた。
「もしかして、留学だと思ってました?」
「ああ、てっきり一年以上は会えなくなるもんだと…… 」
なんだ。安堵のあまり、言葉がするりと零れ落ちる。睫毛が震え、肩から力がどっと抜けていく。ぱちりと瞳を瞬くと、横から注がれる視線に気づき、場地は我に返った。思わぬ誤算のせいで、態度がそのまま出たかもしれない。視線から逃れようとすると、千冬は容赦なく場地の手首を掴んで、それを許さなかった。
「寂しいと思ってくれました?」
「ちが…… ッなんでそうなんだよ!」
「顔、真っ赤だから」
指摘されると余計熱が集中し、誤魔化すことができない。力が入らず、場地はそのまま俯いて、黙り込んでしまった。
「どうしよう、すごく嬉しい」
すっと手が伸びてきて、場地の頬に触れる。指先が熱いのは頬から伝わったのか、それとも彼自身によるものなのか。
「まだ言わないって決めてたのになぁ…… 」
千冬は手首を解いて、場地と向き合う。ひと呼吸して、静かに口を開いた。
「好きです、場地さん。憧れだけじゃない。初めて涙を見たあの日から、ずっと」
澄んだ空色の瞳が、真っ直ぐに見つめている。一途で鮮烈な想いをぶつけられ、痛いくらいに心臓が跳ね上がった。
「アンタに好きなひとがいても、オレはずっと場地さんを想い続けます」
くちびるを震わせて伝えると、つう、と涙が千冬の頬を濡らした。蒼い瞳が海のように深く潤んで、ぼろぼろと涙が零れ落ちる。なんて面倒くさくて、愛おしいのだろう。場地は純粋な眼差しに吸い込まれそうになり、目が離せなくなった。
「なんで振られる前提なんだよ」
「場地さんに気になる子いるって、マイキーくんが…… 」
「それ、コイツのことかも」
場地は携帯電話を取り出して画面を見せた。千冬が恐る恐る目を開くと、そこにはふわふわした毛玉が映っていた。
「気になる子って、犬ッスか?! 」
「やっと飼い主が見つかったんだ。ずっと世話してやってたから、離れがたくてよ」
「まさかオレ、ずっと犬に嫉妬してたんスか?」
「そうなるな」
「そっかぁ」
涙腺がさらに緩んでしまい、涙がとまりそうにない。けれど先程とは違って、そこには歓喜の色が混ざっていた。
「場地さんといると気持ちが溢れちまいそうで、距離置いてました。アンタに釣り合うよう努力して、海外研修終わったら、ちゃんと告白しようって。悔い残したくなかったんで」
ぽつりぽつりと吐露される本音に、場地は耳を澄ます。謎が明らかになり、胸に刺さった棘が抜けたような気分だった。互いに誤解して、勝手に傷ついていただけなんて。あまりにも滑稽で泣けてくる。
「返事してもいい?」
「うっす!」
千冬は泣き腫らした瞼を腕で擦って、居住まいを正した。両眉をキリッともち上げて、くちびるを引き締める。まるで副隊長の時みたいに胸を張り、真剣な眼差しを場地に向けた。きっと忘れられない夜になる。そんな予感に、胸が震えた。
「オレはずっと、自分が幸せになる資格なんてないって思ってた。間違ってばかりだったから」
場地は腹部をさすりながら、自嘲気味に笑った。そんなこと…… と口を出す千冬を、軽く制する。
「でもオレが満たされてるって感じる時、いつも隣りには千冬がいた。オマエが部屋で待ってたり、アホみてえに笑ってると、あったかくなるんだ」
腹部から胸へと手を当てる。今もどくどくと脈を打っている。
「それを幸せと呼んでいいなら、…… 千冬と一緒なら、オレは幸せになってみたいと思っちまった」
幸せにしたいか、幸せになってほしいか。千冬を思い浮かべてみたら、その二択では選べなかった。一緒に幸せになりたい。喜びも苦しみも、彼と分け合う未来を、場地は夢見てしまった。
千冬が傍にいることが、場地にとっての日常だった。雪解けが春になるように、春になって桜が咲くように、当たり前のことだった。だから、気づけなかったのだ。――― 失うのを恐れてしまう、その日まで。
「オレも好きだ、千冬」
想いを告げ、場地は千冬にくちびるを重ね合わせた。こどもがするような、触れるだけのキス。それでも目の前の男は、見たことのないほどに、顔を真っ赤に茹で上がらせていた。
「何照れてンだよ、寝てるオレにちゅーしたくせに」
「アンタあの時起きてて…… !」
「あれからずっと悩んだんだ。責任とれよな」
むすりと尖らせるくちびるに、指先が伸びてくる。今度は千冬が、言葉の代わりにくちびるを塞いだ。啄むように音を立て、キスの雨を降らせる。先ほどよりも長い口付けに、のぼせてしまいそうだ。
「オレはその、キスとか、それ以上のこともしたいと思ってるんスけど…… 、場地さんも同じだって思っていいんスか?」
目元を赤く染めながら、千冬が頬を撫でてきた。子犬のように潤んだ瞳が覗き込む。急に可愛らしい顔をするものだから、年下のこの男は、本当にずるい。
「わかんねえ」
「ええっ!?」
「すぐにわかんねえよ。だから…… もっかい」
場地は千冬の首に腕を回してキスをねだる。口を軽く開くと、歯列を割ってするりと舌が差し込まれた。
「ん… っ…… 」
口腔はすでに、火傷をしそうなほど熱をもっていた。舌を吸い上げられ、互いの唾液が混ざり合う。水音が鼓膜に響き、背筋が跳ね上がった。聴覚からの蕩けそうな刺激に、くらりと眩暈がする。
「…… っ、待っ… んん…… 」
言葉を吸い取るように、舌は何度も絡め取られ、責め立てられる。そのたびに、頭の芯が甘く痺れるような心地がした。
「は…… っ、」
名残惜しそうにくちびるが離れると、細く唾液の糸が伝った。肩で息を整えながら、互いのてのひらを相手の胸に合わせた。どくどくと連なる鼓動は、言葉よりも雄弁に語りかける。
「千冬ぅ…… オレ、すげえドキドキしてる」
「オレも、心臓が破裂しそう…… 」
「大げさ」
「大げさじゃないです! ずっと、こうしたかったんスから」
ぎゅうと千冬が抱きすくめる。もう放さないと言って聞かせるように、腕に力を込められた。
「もっとアンタに触れたい」
掠れた声で甘く囁かれた。耳元に熱い吐息がかかり、場地の背中がびくりと跳ねる。真っ直ぐに向ける眼差しが、蒼い炎のように揺らめいた。
「好きです、場地さん」
焼き焦がれそうなほどの情を注がれて、どうしようもなく心臓が早鐘を打っている。場地は強く背中を抱き返した。言葉にならない、すべての想いを伝えるかのように。
*
カーテンの隙間から太陽の日を浴びて、ぼんやりと身体を起こす。ベッドのスプリングが、普段より勢いよく弾む。隣りの温もりに気づき、場地は跳び上がるように目を覚ました。
(昨日…… 確か千冬と…… )
昨晩のことを思い出し、羞恥で顔が赤く染まる。あれから何度も口付けをして、互いに触り合って、やがて同じベッドで眠りに落ちた。気持ちを自覚したばかりの自分に、千冬が気を遣ったのかもしれない。けれど、想いが通じ合ったばかりのふたりにとって、それだけでも、満ちたりた一夜だった。
「気持ちよさそうに寝やがって」
隣りでふにゃりとした寝顔を軽く摘まむ。昨晩がうそのように幼くて、思わず笑みが零れた。場地は千冬を起こさないように、散乱した衣類を身に付けて台所へ向かった。
コンロに火をかけ、フライパンに溶いた卵を落とした。じゅうと音を立て、調理を始めて数分後、騒々しい足音がぱたぱたと近づいてくる。
「おはようございます! よかった、夢じゃなかったあ」
下着だけを身に付けた千冬が、後ろからぎゅうと抱き着いてくる。危ねぇだろ! と火を使っている最中の場地から拳が飛んできて、千冬は腕を緩めた。
「天井がオレんちなんだから、夢じゃねえのは当たり前だろ」
「そうっスけど、場地さん隣りにいないから…… 朝からイチャイチャしたかったです」
千冬が頬を膨らませる。抜け出して正解だったなと、場地は小さくため息をついた。
「もーすぐ朝メシできっから待ってな」
苦笑して金色の髪を優しく梳いてやる。千冬はそれだけでころりと機嫌を直し、満面の笑みを浮かべた。
「大好きです」
ちゅ、と頬にキスを落として、千冬は部屋へ引っ込んだ。不意打ちのスキンシップに遅れて気づき、菜箸を落としそうになる。
(身がもたねえ…… !)
甘ったるい空気に、場地は項垂れて赤面した。昨日まで親友だと思っていた関係が、一晩で塗り変わってしまったのだ。千冬は真っ直ぐな男だ。憧憬や親愛の情を、いつも本気で場地に伝えてきた。これからは恋人としての愛情も、包み隠さず向けてくるのだろう。それを悟った瞬間、期待と羞恥がむずむずとせり上がってくる。
「早く慣れねぇとな」
はぁと悩ましげにため息をつく。けれど、その口元は緩んでしまっていた。
浮かれて焦がした卵焼きを、千冬は嬉しそうに頬張った。幸せは此処にあるのだと、そう思った自分は正しいのだと。場地はできたばかりの恋人を見つめ、確かにそう感じていた。
*
一週間、千冬は慌ただしく準備に追われる日々だった。けれど、携帯電話でのやり取りは、いつもの調子を取り戻していた。出発の日、場地は午前の休暇をとって、空港まで見送りに来ていた。
「わざわざ見送りに来てもらってすいません」
千冬はキャリーケースを止めて振り返った。平日でも、多くの人々がターミナルに行き交う。離れがたく見つめ合っていると、あのさ、と場地のほうから話を切り出した。
「この前話した犬、新しい家族に迎えられたんだ」
千冬は携帯電話で見せてもらった犬を思い浮かべた。自分が妬いた相手だったな、と決まりが悪そうに笑う。
「警戒心強くて、オレにだけすげー懐いてたヤツなんだ」
「その犬、見る目ありますね!」
千冬の純粋な感想に、噴き出してしまう。
「店員なのに、つい情がわいちまった。…… 出会った頃の千冬に似てたから」
千冬はその言葉にはっとして顔を上げる。場地は視線から逸らして、小さく舌打ちをした。マイキーたちには話したのに、千冬には話せなかった理由。点と点が結び付いた途端に、千冬の頬がだらしなく緩んでしまう。
「場地さんてオレのこと、大好きなんスね」
「ほら、そういう顔するだろ! あークソ、やっぱ言わなきゃよかった」
顔を赤く染めて悪態をつく。そんな仕草も愛おしくて、千冬は優しく微笑んだ。
「言ってくれて、すげえ嬉しいッスよ」
照れ屋な恋人を、腕のなかに抱きしめた。ずっと我慢していたのに、その努力も虚しく心のままに動いてしまう。磁石のように、ぴたりとくっついてすぐに離れた。たった一瞬。けれど、煌めく瞬間だった。
「オレは必ず、場地さんの元へ帰ってきますから」
千冬は迷いなく、愛しいひとに想いを告げた。幸せの在り処を教える小鳥のように。澄んだ青空みたいな瞳が、どこまでも場地を射抜く。
「帰ってきたらイチャイチャするんで、覚悟しといてください」
「…… 生意気」
耳元でそっと囁かれ、鼓動が大きく飛び跳ねた。伝わる温度から気を逸らすように、場地は調子づいた恋人の背を強く押してやった。
「成長して帰ってきたら、たっぷりごほうびやるよ」
場地は好戦的に言い放った。千冬は瞳を瞬かせてから、にやりと口元に弧を描く。
「約束ッスからね!」
元気よく手を振って、千冬は搭乗口へと歩き出した。
(オレを見送った千冬も、こんな気分だったんだろうな)
逞しい背中のまぶしさに目を細め、場地は一年前を思い出していた。旅立ちへの祝福と寂しさ。だけど、あの頃とは少し違う。二人で約束した未来が此処にあるのだ。
「午後から頑張るかぁ」
見送りを終えて外へ出る。空を仰ぐと飛行機が翼を広げ、飛び立つ瞬間だった。風がふわりと強く吹き、花びらが舞い上がる。
何度も訪れた春なのに。
まるで初めての季節と巡り合うかのようだった。
おわり

