休憩/歯型

 静かな部屋に、ぽつぽつと雨が窓を打つ。本を捲る音やキーボードを叩く音が、時折混ざって緩やかに転がった。
 場地はしかめっ面でノートパソコンと向き合っている。それでも順調に作業が進むのは、心地よい環境音と、さりげなく傍にいる恋人のおかげだろう。
「どうっスか? チョーシは」
 目が合うと、千冬は本を閉じて、画面を覗いてきた。先程まで隣りでパソコンを広げていたのに。どうやら仕事は片付いてしまったようだ。
「悪かねぇよ。まだ終わンねぇけど」
「だいぶ進みましたね。さすがです、場地さん!」
 千冬は声を弾ませながら顔を向けた。白い歯が覗く笑みは、曇り空を吹き飛ばすかのような爽やかさだ。直視するには眩しすぎて、場地は顔を逸らして頷いた。
 些細なことでも千冬は褒めてくれる。昔から変わらない、真っ直ぐな言動で。そのたびに、場地はくすぐったくなる。好きな相手の反応ひとつで単純にやる気が出てしまうのは、動物も人間も一緒らしい。
「晴れてたら今頃バーベキューかぁ」
「来週行けンだからいいだろ」
「そうっスけど。集まれるメンバーが、また変わりそうスね」
 千冬は苦笑して、窓の外に視線を投げた。
 連日の晴天が嘘のように、朝から雨が降り続いている。悪友たちとの約束が延期になり、ぽっかり空いた休日。まとまった時間ができたので、場地は仕方なく大学の課題に手をつけていた。
「千冬ぅ、いてもつまんねーだろ。もう帰れば?」
「すんません、邪魔っスか?」
「いや、その逆。すげぇ捗ってる」
「よかったぁ。それなら居させてください!」
 しゅんと下がった眉は、すぐに元の位置まで戻っている。ころころ変わる表情がわかりやすくて、思わず噴きだしてしまった。
 店は定休日にしていたらしく、昼過ぎから千冬が来て居座っている。課題が終わるまで待つつもりなのだろう。隣りにいるだけでいいから、なんて欲のないことを言う。本当は構ってほしいくせに。
 知らないふりをして作業に戻ると、きゅうと腹の虫が鳴った。
「少し休憩にしませんか? 何か作りますよ」
 時計の針はすでに三時を回っている。遅めの朝食をとったせいか、中途半端に小腹がすいてしまった。
 画面を閉じて、うんと腕を伸ばした。テーブルに突っ伏すと、キッチンへ向かう千冬の姿が目に入る。
「冷蔵庫ンなか、何もねぇだろ。ペヤングならそこにあるけど、朝も食ったしな」
「相変わらず好きっスね」
 千冬はくすりと笑い、腰を屈めてほぼ空の状態の箱を覗き込んだ。
 最近は千冬の家でご飯を食べたり、大学付近の定食屋に寄ったりすることが多い。忙しさに追われ、自炊はほとんどしていなかった。
「カンタンのならできっかも。ちょっと待っててくださいね」
 明るい声が返ってきて、千冬はぱたぱたとキッチンを動き回る。場地は雨音と調理の音を聞きながら、うとうと微睡んでいた。

 コーヒーの香りに気付き、深い眠りに落ちる前に目を瞬かせた。顔を上げると、皿とマグカップが並べられている。
「できましたよ、場地さん」
「ありがとな。サンドイッチか、いいじゃん」
「詰めすぎたっスけどね」
 千冬はばつが悪そうに頬を掻いた。焦げ目の付いた食パンに、卵やレタス、トマトがぎゅうぎゅうに挟まっている。農学部の知り合いから野菜をもらっていたことを、すっかり忘れていた。
「千冬は食わねーの? 半分コしようぜ」
「あざっす! 場地さん、お先にどうぞ」
 包丁で切るとかたちが崩れてしまうからと、食べるように促される。
 いただきますと言って、場地はパンにかぶりついた。新鮮な野菜とマヨネーズの絡んだ卵が、疲れた身体に染み渡る。
「うめぇ。やっぱすげぇな、千冬」
「切って挟んだだけっスよ」
 咀嚼してから再び歯を立てると、パンの端からトマトが零れてしまう。それを口元へ運び、ぺろりと指を舐めた。
 恋人は甘く目元を緩め、正面からじっと見据える。黙っているけれど、その眼差しは何か言いたげに熱を帯びていた。
 こんな顔をするときの千冬は、どうせろくなことを考えていない。
 場地は長年の付き合いから、すぐに察して眉を顰めた。大口開けて可愛いとか、夢中で食べてて可愛いとか。きっとそんな浮かれたことばかりだ。
「何だよ」
 答え合わせをするかのように、わざとらしく尋ねてやる。
「見られてっと、食いづれぇンだけど」
「その……えろ……、色っぽいから」
 千冬は頬を赤らめながら言い淀んだ。
「あのときも、そんなふうに噛んでたのかなって、想像しちまって」
 そわそわと落ち着かないそぶりで、右肩を撫でている。その仕草を目の当たりにして、場地はやっと自覚して唾を呑み込んだ。ぶわりと顔に熱が集まっていく。
 シャツで隠れた右肩。そこにはきっと、この前付けたばかりの歯型が、くっきりと残っている。
 ふたりして溺れた夜。場地は戻れなくなりそうな快楽に耐えようと、千冬の背中に縋り付いた。途中から理性が飛び、思いきり噛んでしまった痕。鋭い八重歯が食い込んでいたから、完全に消えるまで時間がかかるだろう。
 隣りにいるだけでいいなんて、やはり大間違いだ。それどころか、千冬はずっと、場地のことを物欲しげな目で狙っている。
「よけー食いづらくなったワ」
「すんません、ヘンなこと言いました」
「次はテメーが食えよ」
 場地は挑発的に笑い、身を乗り出した。サンドイッチではなく、顔をぐいっと近づけて。
 ガタンと椅子を揺らしながら、テーブル越しに手が伸びてきた。ご馳走を前にした恋人は、迷わずかぶりつく。
「美味いっスね」
 しかし、口を付けられたのは指先だった。
「おい……」
 節々を確かめるように、じれったく舌を這わせる。指を吸い上げられて、場地はびくんと身を捩った。
「ン、そこじゃねぇだろ」
「じゃあ、どこ?」
 舌を出して、意地悪く千冬が笑みをつくる。
 ああ、今すぐぶん殴ってやりたい。だけど、久々に降り注ぐ刺激には、抗えそうにない。
「こっちだ、ばか」
 場地はテーブルから離れ、観念して恋人の胸へと飛び込んだ。噛みつくように唇を奪ってやる。
 部屋を満たすのはもう、雨音どころではなくなりそうだった。